赤間川と人々の生活
-入間川から分水したのはなぜ?-
日 時:12月22日(水)13:30~15:10
会 場:オンライン 元気プラザパソコンルーム
講 師:狭山歴史ガイドの会 高塚美也子さん
受講生:出席10名(欠席1名)
市民講師は本講座受講生!
今回の講師は、本講座受講生の高塚さん。村田リーダーに頼まれた後、約1年間かけて調べた赤間川についての講義でした。受講生講師も初めてなら、赤間川についてこれほど詳しく調べ、まとめ、お話してくれるのも初めて……。常日ごろ接している仲間でもあり、親しみが持てた講義でした。「今後もこのようなケースがあってもいいのでは!」とは講座後の村田リーダーの言葉です。
赤間川の変遷
承応元年(1652)の入間川から伊佐沼まで(15.8㎞)の工事は元が取れる事業だったのか……。独特の切り口で始まった講義。工期は稲刈り修了後から田植え前までの7ヶ月半で、赤間川開削工事投資資金は試算によると2232両。1年分の年貢増加分で回収できたとか。その後、江戸、大正、昭和と水不足や洪水被害解消のための改修についての説明がありました。
江戸中期の赤間川沿いの水車9軒についてもビデオや図を使って詳しく説明され、水車の仕組みまで良く分かりました。現在はどうなっているか等、地図や写真を見ながらの話があり、今は跡形もない様だがよく見ると確認できるなど、写真を見ての説明に講師の熱意が伝わります。昭和14年(1939)、笹井堰から仙波河岸まで19.2㎞の改修が行われ、重力式玉石コンクリート造り笹井堰が完成。赤間川は笹井堰取水口から黒須用水を通り、霞川を伏越するようになりました。その後の耕地整理で赤間川が現在のように真直ぐになったことも分かりました。
戦後の赤間川
昭和23年(1953)アメリカ極東空軍ジョンソン基地の水道用水として8000㎥/日を分水要求され、現在も自衛隊が取水している話、干ばつ対策として立てられた宮沢湖からの引水計画が途中で費用が不足し笹井堰に水を落とすことで決着した話など、初めて聞く話に興味津々でした。更に、狭山市内の赤間川と川越市内の赤間川の違いにも話が及び、多くの魚が住み、流域の環境も保護されている川越との違いが浮き彫りになります。用水路は水の流れを季節や天候で調節できるようになりました。そのため、現在では水不足の心配はなく、むしろ増水した場合の対策を重視する必要があるようです
これからの赤間川
赤間川もこれからは水田を潤す他、観光や親水の場としての役割を考える必要があります。ホタルの遊園地等狭山市にもいくつかありますが、川越市では川舟下りや小学校の敷地を利用した水害対策事業等もあるそうです。地域の人々にも愛される赤間川になってほしいと話は結ばれました。
講師が自衛隊にどの位の水を取っているのか訊ねたところ、教えられないとの答えが返って来たので、まだ取っているのかさらに訊ねたところ、取っているとの答えだった等、講師の人柄の感じられるお話がちりばめられた本日の講義でした。
講義の後に
受講生からは、「赤間川は、河越城の外堀的な役割もあったのではないか」、「赤間川と不老川はつながっているのか」、「新しい知識を吸収できて楽しいが、市内小学生への郷土史の取り組みは?」等々の意見が出されました。最後に講師から「赤間川は身近な所にあります。見学できるので是非散策してみてください」の言葉がありました。