柏原新田はなぜ奥冨村と合併したの?
日 時:11月10日(水)13:30~15:40
会 場:オンライン 元気プラザパソコンルーム
講 師:狭山市立博物館元館長 高橋光昭さん
受講生:出席8名(欠席3名)
現在、柏原新田はそのほとんどが入間川左岸に位置していながら、明治22年の合併時には右岸の奥冨村と合併している。何故対岸の村と合併したのか、その理由をさぐる今回の講義。
柏原の歴史
まずは、『吾妻鏡』の中の柏原太郎、柏原鍛冶と呼ばれる集団の小田原北条氏への槍の納入、柏原鋳物師の白鬚神社所蔵の5面の御正体(みしょうたい)、円光寺所蔵の元亀3年(1572)銘の銅製聖観音立像などから、柏原村の歴史を紐解きます。
入間川の洪水で村境の訴訟へ
市内最古の新田開発である柏原新田。17世紀後半、柏原新田の中央部を入間川が流れるようになり、村民の住まいは左岸から右岸へと必然的に変わりました。度々おこる洪水の被害で、柏原村と上奥富村、下奥富村との間では村境(郡境)をめぐり何度も訴訟に発展しています。しかし、文政13年以降は、下奥富村との協力態勢が確立します。このころの家数は、わずか7軒だったそうです。
市制町村制施行で合併へ
明治22年(1889)に全国規模で市制町村制の施行が行われ、旧町村が再編されました。県の再編試案では、上奥富・下奥富の2か村合併を提示されました。柏原新田を除いたのは、江戸時代以来、村境や秣場をめぐり訴訟が繰り返されたため、民情に問題があると判断されたのです。これに対し下奥富村は、柏原新田とは村境が複雑に錯綜しており、分離は無理と主張。柏原新田も、かつての訴訟はすでに解決しており、いまさら親村の柏原村との合併は、入間川の流れという障害もあるため困難であり、奥富村への加入を願い出ました。これにより市域の旧村は以下のよう に再編されました。
入間川→入間川
北入曽・南入曽・水野→入間
堀兼・東三ツ木・加佐志・青柳・中新田・上赤坂→堀兼
上奥富・下奥富・柏原新田→奥富
柏原→柏原
上広瀬・下広瀬・根岸・笹井→水富
入間川を挟んで,両岸が合併した理由がよく分かった講義でした。柏原新田ばかりでなく、旧町村の合併のいきさつは大変参考になりました。講師の幅広い知識からの多岐にわたっての講義はとても好評で、高橋講師の歴史講座の修了生も多く、懐かしく講義を受けていました。