編集:チーム「トトロ」
講座実施報告 7月2日(土) 講座報告 「生涯現役の思考 -実業家・渋沢栄一に学ぶ-」
講師:東京国際大学 高田 知和教授
1. 講座のテーマ
渋沢栄一の地域づくりや人づくりを通して、その生涯現役の思考について、渋沢栄一から何が学べるか、講座を通じて一緒に考える。
2. 渋沢栄一とは
・1840年(天保11年)武蔵国榛沢郡血洗島村(現、埼玉県深谷市血洗島)の農民の生まれ。
→尊王攘夷の志士的活動→京都で一橋慶喜の家来、慶喜が将軍になると幕臣に。
→博覧会に行く徳川昭武に従いフランスへ派遣。
→明治後、明治政府からスカウトされ民部省・大蔵省へ。
→退官後民間へ、以降一貫して日本資本主義の発展に寄与。
→喜寿(77歳)を超え民間での様々な活動(教育、福祉、民間外交等)に専念→1931年92歳で永眠。
3. 何故晩年の渋沢栄一は郷里にいろいろと関わったのか
・郷里が懐かしいから。
・人づくり、地域づくり論…青年たちへの郷里への貢献の勧め。
・地域論…地域振興。
4. 生涯現役の渋沢栄一の考え
「人は生きている限り、其の社会に対しての責任がある」「私共死ぬる迄“国民を辞職”することはできぬ」という思い。
出典:東京国際大学高田知和教授著作 講義資料「生涯現役の思考、渋沢栄一に学ぶ」より抜粋
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1. 渋沢栄一の深谷を一度訪ねてみたい。「生涯現役」の生き方を更に学んでみることも興味深いと思います。図書館へも行ってみるつもりです。
2. 「生きがい」と「アンチエイジング」と渋沢栄一語録について「人は生きている限り、其の社会に対しての責任がある」人間は30歳まで学問し、それから60歳まで仕事をし、60歳から90歳まではある条件の下に同じ活動を続けるのが良い。アクティブエイジングは社会貢献で生きがいを見出すこと、と感じた。楽しい講義ありがとうございました。
★ 高田教授より
社会貢献で生きがいを見い出すことがアクティブエイジングというのは、本当にそうだと思います。
3. 講義を伺い渋沢栄一の生涯現役と言う意味がよく分かった気がします。人づくり、地域づくりに貢献し、教育・福祉・資本と労働に関わって来られた方だと感心しました。「思想は実践によって生かされなければ意味がない」「人は生きている限り、其の社会に対しての責任がある」など感動する考え方が沢山ありました。
4. 渋沢栄一は実業家として、多くの企業に関わったと聞きますが、具体的な企業名を教えて頂けませんか。故郷にも現在住んでいる所にも尽くそうという気持ちを一度も持ったことがないので、渋沢栄一の「人は生きている限り、其の社会に対しての責任がある」の言葉が印象に残りました。
★ 高田教授より
渋沢は、「明治42年、栄一は70歳に達したので、これを機会に多くの関係会社・団体からその職任を辞することとした。6月6日、渋沢事務所に関係者を招いてその意を伝えたが、関係会社は61、団体、学校は17であった」(『渋沢栄一伝記資料 別巻第七 談話(三)』113頁)とされていますが、他方で、「渋沢史料館」(「澁澤栄一記念財団」)のホームページによれば、生涯に500近い会社に関わったと書かれています。
(詳細は、http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/companyname/index.html をご参照ください)。
そのうちの、もう本当に幾つかだけ企業名をいうと、第一国立銀行(今のみずほ銀行)の他、日本郵船、鐘淵紡績、富岡製糸場、王子製紙、品川白煉瓦、東京海上保険、帝国ホテル、東京瓦斯、日本鉄道、明治製糖、大日本麦酒などなどです。特に銀行関係は、もともと本拠地が第一銀行だったこともあり、非常に多いです。私の地元でも、熊谷銀行のようにその後幾度かの変遷を経て今はりそな銀行になっているところも当然関わっていましたので、小さい金融機関でも結構あります。また、日本にはそうした実業家たちの集まりがないと指摘されたので、東京商法会議所(後の東京商工会議所)のような経済団体も作りました。
5. 渋沢栄一について名は知っていたが、全く知らなかった様である。各方面の本を読んでみようと思う。自分のこれからに何かを与えてくれそうである。
6. あまりにも尊大な人なので、埼玉に暮らしているご縁で本を読んでみようと思います。以前、何10年か前に都内散策の折、渋沢記念館に行った時の事が思い出されますが、今日のお話を聞いて少し身近に感じられます。
★ 高田教授より
厳密に申しますと、都内の飛鳥山にあるのは「渋沢史料館」で、「渋沢記念館」というのは深谷市にあります。「渋沢記念館」は地元のコミュニティ施設のようなものですが、「渋沢史料館」の方は「渋沢栄一記念財団」がやっていて、非常に大規模です。史料保存も徹底していて、温度・湿度ともに理想的状況で保持されているとのことです。お花見の時などに寄ってみられると良いのではないでしょうか。
7. 私は歴史(歴史上の人物も含む)が好きで、若い頃はそれなりに本を読みましたが、今回久しぶりに渋沢栄一の生涯講座を受け凄く興味深く聞くことができました。再度、資料を読み直したいと思います。
8. 渋沢栄一については埼玉の生んだ偉人として名前は知っていたが、その人となりや功績については詳らかでなかった。本日の講義でその人となりや功績を知ることができ、改めて彼の偉大さに触れることができました。地域づくり、人づくりを実践した人物として喝采を贈りたい。
9. 残っている時間で役に立てるような生き方をできるようになりたいと思っています。小さなことに喜びを感じたりしています。
10. 渋沢栄一=経済人という知識でしたが、おおくのエピソードを紹介して頂いて=財産というべきは人造り=を通じて我々が何を学べるか考えたいと思う。エピソードを多く含んだお話はもっと聞きたいと思いました。
11. 深谷に出かけた時、資料館の看板を見た事がありますが、今日の先生の突き詰めた話を聞き、是非本を読んで見たいと思いました。是非これからの生き方をすこしでも参考にしたいと思います。「人は生きている限り、其の社会に対しての責任がある」という言葉に考えさせられました
12. 渋沢栄一様の事始めて聞きました。是非もう一度本等で調べてみようと思いました。とても貴重な講義ありがとうございました。
13. 渋沢栄一の生涯を通して生涯現役の在り方を学んだ講義であった。特に興味を持った事として現在特に言われている「地方創生」「地方の活性化」という考え方が、すでに渋沢栄一の「国家に取っての地方は真に元気の根源、富裕の源泉である」という考え方に帰依していると思われ、非常に不思議に思えた次第である。先人の考えの中に現在の社会を良くしている考え方が沢山ある様に思われた。
★ 高田教授より
明治末期、近代日本では産業資本が確立して資本主義化が進んだ結果として、農村から都市へと人口流入が顕著になりました。そして都市化が進んでいくのですが、その半面で農村の遅れというのが目立ってきます。当時こうした傾向は「向都離村」と言われました。さらに、日露戦争が財政的に非常に苦しかったこともあり、桂太郎内閣が戦時非常税を創設した後で、戦後ロシアから賠償金も取れなかったこともあり、この戦時の非常税だったのが常態化していきました。そのため、特に地方では税金の滞納者が続出し、農村が荒廃していきます。こうした傾向を憂えて、第二次桂内閣では、「戊申詔書」を出して気持ちの引き締めを国民に伝えるとともに、「地方改良運動」を進めていきます。特に「模範村」というのを設定して、綱紀の粛正を図っていくのですが、渋沢が地方のことを特に取り上げて話しているのも、こうした時代背景のなかでのことだったと言えると思います。旧制一高では、徳富蘆花が「勝利の悲哀」と題した講演を行ない、日露戦争に勝って世界の一等国の仲間入りをしたと浮かれていることへの警鐘を発して、それを聞いた一高生の幾人かはいたく反省して一高を中退して、郷里のために尽くそうと帰って行ったとも言われていますが、そうした時代でした。
※ 高田教授の講義に感銘を受けた受講生が、飛鳥山の渋沢栄一資料館や博物館、渋沢栄一の故郷深谷の血洗島の記念館や生家などゆかりの里を訪ねて渋沢栄一の足跡や業績を更に学びました。
深谷市の渋沢栄一記念館の裏から故郷の血洗島を眺める渋沢栄一像と現在の深谷市血洗島景色
写真提供 渋沢生誕の地を訪ねたいきがい講座受講生より
渋沢栄一の生家、通称「中の家(なかんち)」と呼ばれています。
「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学びました。
渋沢栄一も大好物だったという深谷の郷土料理「煮ぼうとう」は生家の隣にある食事処で食べられます。
写真提供 渋沢生誕の地を訪ねたいきがい講座受講生より