「伊勢西国道中記」を読もう 6
日 時 : 7月23日(火)13:30~15:30
場 所 : 狭山元気プラザ第2教室
講 師 : 狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
これから掛川宿から戸倉宿までを読み進めます。
①【原 文】
是より町末に秋葉山壱の鳥居有
これより秋葉道なり六拾丁道並
此間川弐つ有橋代八文宛並四十八瀬川
艀代度々出候也
一森町え 三里
廿三日 弐百文 大黒屋源五郎泊り
此間曽々瀬峠あり
一美倉え 弐里半
一小ならい 壱り
【書き下し文】
是より町末に秋葉山一の鳥居有り。
これより秋葉道なり。60丁道並びに
此の間に川二つ有り、橋代8文宛。四十八瀬川
艀(はしけ)代度々出候。
一森町へ 3里
23日 200文 大黒屋源五郎泊り
此の間、曽々瀬峠有り。
一美倉へ 2里半
一小奈良安 1里
②【原 文】
一犬居え 壱り十一丁
此間舟渡し拾弐文
一坂下え 八丁
七拾弐文昼喰 い高木屋
是より秋葉山五拾丁の御坂也
一秋葉山大権現
御社領弐万五千石
拝殿五間四面右の方御本社正一位秋葉山
とふろう数しれす但し左の方
寺より御札出す也是より戸倉
に掛越也
【書き下し文】
一犬居へ 1里11丁
此の間舟渡し12文
一坂下へ
72文昼喰 い高木屋
是より秋葉山50丁の御坂なり。
一秋葉山大権現
御社領1万5千石
拝殿5間4面右の方御本社正一位秋葉山
灯籠数知れず、但し左の方
寺より御札を出すなり。是より戸倉
に掛け越すなり。
難 読 字
「秋葉山」は「あきはさん」と読み、「小ならい」は「こならやす」で「小奈良安」と書きます。「とふろう数しれす」は「灯籠数知れず」と読みます。
現代語訳
道標「右 秋葉鳳来寺道」に案内され、秋葉山の大鳥居を潜り、秋葉山道に入りました。逆川と西ノ谷川の2つの橋(8文)を渡り、四十八瀬川を艀(はしけ)で渉り、遠州の小京都森町に入ります。
23日、200文で大黒屋に宿泊し、曽々瀬峠を越えました。美倉宿(三倉宿)から小奈良安宿を通り、犬井宿に向かいます。渡し舟(12文)で天龍川を渡り、坂下宿に到着しました。高木屋で茶店に入り、72文の茶代を支払い、50丁の急坂を上り、秋葉山へ至ります。秋葉大権現(本地仏は聖観世音・垂迹神はホノカグヅチノ神)は、火防(ひぶせ)の神を祀ります。権現は2万5千石の大社で、数多くの灯籠と丁石が寄進されています。拝殿は五間四面で、本殿に正一位秋葉山大権現(三尺坊大権現)を祀っています。
解 説
掛川宿の壱ノ鳥居から門前の五ノ鳥居まで、秋葉大権現は五つの鳥居がありました。秋葉大権現は新義真言宗当山派の寺院でしたが、1625(寛永2)年、曹洞宗に改宗しています。祭事は秋葉山(大登山)霊雲院秋葉寺(しゅうようじ 静岡県周智郡春野町)の社僧が行いました。信濃国戸隠(長野県上水内郡戸隠)の飯縄権現(いずなごんげん・本地仏は大日如来・祭神は大戸之道尊)と同様、眷属(けんぞく)は二枚の羽根を持つ烏(からす)天狗です。秋葉山は明石山系の南端に位置し、山陽豊かで山頂からの景色は、東海第一の絶景と称されます。京都の愛宕神社(本地仏は将軍地蔵・祭神は火産霊命)と共に秋葉権現は火伏と防火に霊験があらたかです。『三大実録』は「貞観十六年(874)五月十日、遠江国正六位上岐気保神従五位下を授かる」と記しますが、1867(慶応3)年になって朝廷から正一位を賜られました。社領は2万5千石もなく、石高を盛っています。落語の「牛ほめ」は、サゲの「火」と「屁」を引っ掛け、地口落ちで観客を笑わせていますが、秋葉信仰は富士浅間信仰と共に江戸の町人に爆発的に広がりました。
明治維新を迎えると、神仏習合だった秋葉大権現は、秋葉本宮秋葉神社と称するようになります。ちなみに、1870(明治2)年、東京都千代田区秋葉原(あきはばら)に政府が火除地(ひよけち)を整備した時、「秋葉ノ原」を「きはばら」といい、現在の「あきば」の略称が定着しました。
幕府管理の五街道と、諸藩が管理を任された脇街道(脇往還)がありました。江戸時代、旅籠は一つの宿に連泊できません。木賃宿は相部屋で食事はなく、素泊まりでした。宿泊代は、旅籠の半分位の宿泊代で、食事は薪(たきぎ)を買い自炊しました。主な街道には、距離を示す一里塚や道標、国境の傍示杭、常夜灯、並み木が整備されました。街道が整備されたお蔭で、旅人はとても安全に旅することができました。およそ2里半(約10km)ごとに、宿場=宿駅が設置されました。本陣と脇本陣は大名が主に使用しましたが、脇本陣は大名が宿泊していない場合、庶民も泊まれました。時代劇で土下座の風景が放映されますが、強要されたのは将軍家と御三家の行列だけです。江戸の街中を急患に向かう医者が大名行列を横切っても罰せられなかったそうです。