「伊勢西国道中記」を読もう 5
日 時 : 7月16日(火)13:30~15:30
場 所 : 狭山元気プラザ第2教室
講 師 : 狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
それでは、府中宿より島田宿までを詳しく読んでいきます。
①【原 文】
大社也尋寄てよし弐ケ所女郎屋
七軒有在に阿部川舟賃廿四文
次に十たんこ名物あり
一鞠子え 壱り半
此間宇津の峠あり
一岡部え 弐り
一藤枝え 壱り廿六丁
六拾四文昼喰 大青石や
此間左り方田中城見ゆる
高四万石御城主本田伯耆守
一島田え 弐り八丁
此間大井川弐人持百五拾文
【書き下し文】
一大社なり、尋ね寄りて良し。2か所女郎屋
7軒有り。在に安倍川舟賃24文、
次に十団子名物有り。
一鞠子(丸子)へ 1里半
一岡部へ 2里
一藤枝へ 1里26丁
64文昼喰す、大青石屋
此の間左方田中城見ゆる
高4万石御城主本田伯耆守
一嶋田へ 2里8丁
②【原 文】
一かなやえ 壱り
弐百文 山田屋次三郎泊り
かなや峠あめ餅名物有
日坂峠あり
一日坂え 壱り廿六丁
此間佐夜の中山夜なき石有
坂を下りわらひ餅名物あり
一掛川え 壱り廿六丁
七拾弐文昼喰 ときわや
遠州佐野郡
御城主 太田摂津守
御知行五万三千石
【書き下し文】
一金谷へ 1里
200文 山田屋次三郎泊り
金谷峠 飴餅名物有り。
日坂峠有り。
一日坂へ 1里26丁
此の間小夜の中山 夜泣石有り。
坂を下り、蕨餅名物有り。
一掛川へ 1里26丁
72文 常磐屋
遠州佐野郡
御城主 太田摂津守
御知行5万3千石
難 読 字
「女良屋」の郎は異体字です。「十たんこ」は十団子(とだんご)、金谷は「かなや」と、「常磐屋」を「ときわや」は平仮名で表記しています。
現代語訳
富士浅間宮近くに女郎屋が7軒ありました。安倍川の渡しを舟(24文)で渡り、宇津ノ谷峠で十団子(とだんご=玉を型取った十個の小さな団子を連ねた)を食べました。鞠子宿(丸子宿)には、石高4万石の本多伯耆守支配の田中城(丸子城)があり、そこで家康は鯛の天ぷらを食べ死去したといわれます。難所の宇津ノ谷峠(蔦の細道)を越えて島田宿へ向かいます。軍事上から江戸を守るための「越すに越されぬ大井川」を、人足二人で担ぐ輦台(れんだい150文)で渡りました。
22日、金谷宿の山田屋(200文)に宿泊します。金谷峠で名物の飴餅(こしあんに白玉団子を包み、飴を絡めた菓子)を楽しみ、日坂峠に向かうと、小夜の中山道(佐夜の中山とも)に夜泣石(夜になると泣くと言う)が鎮座していいました。しかし、大井平と沓掛の二つがあって、どちらが本物かは不明です。日坂峠を下り蕨餅を食します。掛川宿の常磐屋で72文の昼食を摂りました。石高5万3千石の掛川城は、太田摂津守(太田道灌の子孫)が住む城です。
解 説
幕府は遊郭を特定地区に集中し公認しました。江戸の吉原や大坂の新町、京都の島原が有名です。全国25か所の一つが、駿府国府中の三十六丁です。大井川は橋を架けることと渡し舟が禁止され、水深により股通し48文から最高で脇通しの94文までで、水深により渡し賃が異なりました。戦国武将の山内一豊(1545~1605)は小田原の北条氏を攻めた後、城主として掛川城に10年間住みました。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、土佐国(現 高知県)に所替えになります。当時、旅人は振り分け荷物を肩に掛け、刃渡り30㎝以下の護身用腰刀(脇差は約50㎝、打刀は約95㎝)を差し、悪人に注意しながら旅しています。
江戸時代、幕府は宗教政策を指導する国家仏教でした。山伏が関係する修験道は、真言宗醍醐は醍醐山(深雪山)醍醐寺(本尊は薬師如来)の当山派と天台宗聖護院常光寺の本山派の二大流派がありました。修験道は、江戸時代、神道の神と仏教の仏が深く結び付いていました。しかし、明治時代を迎えると、新政府は宗教政策で、それからは国家神道にしました。1868(慶応4)年、維新政府は神仏分離の布告(神仏分離令)を出し、別当と社僧は還俗が命じられ、神職の世襲制度もなくなりました。天皇家と社家は仏式葬式から神葬祭に改められ、庶民も神葬祭に改める者も出ました。
源右衛門さんは、案内書である道中記を参考にしながら、自身の『伊勢西国道中日記』に記録を取り続けています。それを読むと、タイムマシーンに乗り現場に行って直接それを見たような気持ちになります。