「伊勢西国道中記」を読もう 8
日 時 : 9月10日(火)13:30~15:30
場 所 : 狭山元気プラザ第2教室
講 師 : 狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
加登谷村から赤坂宿までを読み進めます。
①【原 文】
一新城え 三り
此処御じんや
菅沼新八郎様
次に
豊川稲荷大明神
大社なり此処より
東海道え出也
此間こゆの宿引わろき処也
宿引の申事御無用
一ごゆえ 五り
【書き下し文】
一新城え 3里
此の処、御陣屋菅沼八郎様。
次に、豊川稲荷大明神、大社なり。
此の処より東海道へ出るなり。
此の間、御油の宿引き悪き処なり。
宿引きの申す事御無用。
②【原 文】
一赤坂え 十六丁
百七拾弐文 池田屋大吉泊り
一藤川え 弐り九丁
此間大平川板橋五拾六間也次に
大平村の御城主御知行壱万石
大岡紀伊守
一岡崎え 弐り廿九丁
六拾四文昼喰 山のや
御城主
本田中務正守
御知行五万千石
【書き下し文】
一赤坂へ 16丁
172文 池田屋大吉泊り
此の間大平川板橋56間なり。
次に大平村の御城 主御知行1万石
大岡紀伊守
一岡崎へ 2里29丁
64文昼喰 山野屋
御城主本田中務正
御知行5万千石
言 葉
「じんや」即ち「陣屋」は、代官が知行地に所有した役所です。「こゆの宿引…」は「御油の宿引悪き処」と読むか。歌川広重(1797~1858)の描く「東海道五拾三次 御油」は、旅客を自分の宿屋に勧誘する「留め女」が無理矢理引きずり込もうとする様子を描いています。「山のや」は「山野屋」と書きます。知行は、幕府や藩が家臣に俸禄として土地を支配したことを意味します。
現代語訳
新城宿(しんしろじゅく)に出ると、菅沼新八郎の陣屋がありました。次に、曹洞宗円福山豊川院妙厳寺(本尊は千手観音)の稲荷大明神(祭神はインド伝来の吒枳尼真天〈だきにしんてん〉)を参拝します。東海道に戻り、御油宿に入ると留女に勧誘されました。赤坂宿と御油宿の間は2kmと最も短く、客引きが多かった。坂宿の池田屋(172文)で宿を取りました。
大平村で大平川に架かる板橋(長さ56間)を渡ると、大岡紀伊守(1万石)の西大平城がありました。東海道には見事な杉並木が続き、八丁味噌発祥の岡崎宿で一泊します。
徳川家康(1543~1616)誕生の岡崎城(龍城とも)は、石高5万千石で城主は老中の田中務正(なかつかさのしょう)忠民(1817~1869)です。山野屋で昼食(64文)を摂り、一休みしました。
解 説
豊川稲荷は、京都市伏見区の伏見稲荷大社(祭神は倉稲魂命=ウカノミタマノミコト)と岡山市の日蓮宗稲荷山妙教寺(本尊は法華経菩薩)最上稲荷(祭神はダキニテン)と共に、商売繁盛や福徳開運、家内安全に多くの参拝者が訪れます。明治元年(1867)、神仏分離した時、豊川稲荷と最上(さいじょう)稲荷の両明神だけは廃仏毀釈を免れ、神仏習合の姿を残しています。江戸町奉行の大岡越前守忠相(1677~1752)が、三河国赤坂(現 愛知県岡崎市)から東京都港区元赤坂に豊川稲荷を分祀しました。
赤坂宿は三河国の天領の中心地で、西大平藩主の大岡紀伊守忠敬(1828~1887)が年貢の徴収や訴訟などを扱っていました。大平橋などの板橋は、重要な場所に架けられました。東国で石橋が架けられるようになるのは、今から277年前の寛保2年(1742)の大水害以降のことです。
旅人は、軽くてかさばらない土産を買い求めました。小田原宿の外郎(ういろう 丸薬の透頂香)や有松宿・鳴海宿(名古屋市)の絞り染め、大津宿(滋賀県大津市)の大津絵、伊勢市朝熊山(あさまやま)金剛證寺の万金丹(漢方薬)、藪原宿(長野県木曽郡木祖村)の於六櫛が知られます。
志村源右衛門は、旅行ガイドブックを参考にして旅日記を書きました。今回、『伊勢西国道中記』をとおして、今から163年前の安政3年(1857)の旅路の様子を窺い知りました。幕末期、旅人は、どんな風景を見ていたのでしょう。タイムマシーンに乗って、源右衛門と一緒に旅したくなりました。