「伊勢西国道中記」を読もう 7
日 時 : 9月3日(火)13:30~15:30
場 所 : 狭山元気プラザ第2教室
講 師 : 狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
今日は、戸倉宿から加戸谷村までを読み進めます。
①【原 文】
一戸倉え 五十丁
廿四日 弐百文 柳屋銀助泊り
此間才川川舟渡し拾弐文 坂を登り
一才川え 廿五丁
一石打村え 弐り
一熊村え 廿五丁
六拾四文昼喰 あたこや平太郎
一大平え 壱り
廿五日 百七拾弐文 山本屋久兵衛泊り
【書き下し文】
一戸倉へ 50丁
24日 200文 柳屋銀助泊り
此の間、才川舟渡し12文。坂登り
一熊村え 25丁
64文昼喰 あたこや平太郎
一大平え 壱り
25日 172文 山本屋久兵衛泊り
②【原 文】
一巣山え 六り半
此間四拾四まかり峠有
一大野え 壱り半
此間荷物まわしてよし
一鳳来寺え 五拾丁
此処鳳来寺行者もとし大難所也
峯薬師並東昭大権現
御朱印千五百石坊廿一坊有
七堂がらん也
一加登谷村え 九丁下り
百七拾弐文 松坂や泊り
【書き下し文】
一巣山へ 6里半
此の間、四拾四曲峠有り。
一大野へ 1里半
此間荷物廻して良し
一鳳来寺へ 50丁
此の処鳳来寺行者戻し、大難所なり。
峰薬師並びに東照大権現
御朱印1500石、坊21坊有り。
七堂伽藍なり。
一加登谷村へ 9丁下り
172文 松坂屋泊り
言 葉
「あたこや」は愛宕屋と、「まかり峠」は曲峠と、「まわしてよし」は廻して良しと、「七堂がらん」は七堂伽藍と書きます。「峯薬師」は峰の異体字です。
現代語訳
24日、戸倉宿の柳屋で(200文)に宿泊します。才川を12文で渡り、坂を上りました。才川宿から石打村を過ぎ、熊村の愛宕屋で昼食(64文)を摂りました。25日、大平宿の山本屋(172文)に宿ります。巣山宿では四十四曲峠を越えますが、「荷物を次の宿に送ってもらった方が良い」と次回に道中する人に喚起しています。
行者戻峠の難所を通り抜け、煙巌山医王院鳳来寺(本尊は薬師如来)を参拝します。朱印1500石で、七堂伽藍が並び建ちます。山伏が修行した山々は岩肌が露出し、険しくも美しい景色が眼前に広がります。西側の参道1425段を下り、26日、加登谷村の松坂屋(172文)で宿泊した後、一行は新城宿に出るのでした。
解 説
「ブッ・ポウ・ソウ(仏法僧)」と鳴くコノハズクで知られる鳳来寺は、真言宗と天台宗の2宗派が管理する寺院です(善光寺も天台宗の大勧進と浄土宗の大本願が管理する)。七堂伽藍(1つの伽藍に七種の建物が建つこと。7つある訳ではない)が建ち並び、僧房が21坊(天台宗が11坊・真言宗が10坊)もありました。1651年(慶安4年)、第4代将軍徳川家綱(1526~1549)が、東照宮を建立しています。ところで、鳳来寺が徳川家に深く信仰されるようになったのは、「松平弘忠(1526~1549)の妻・於代(おだい)の方が本地仏である薬師如来に安産を祈ったところ、竹千代様(徳川家康公)が授けられた」由緒があるから。「権現様は薬師如来の生まれ変わり」と伝わる所以です。死後、家康公は日光東照宮(栃木県日光市)に祀られ、東照大権現として神格化されました。
江戸時代後期、旅籠は夕食に一菜多くし、旅人の食事を満足させました。また、旅人は各地の名物を食べることか楽しみでした。丸子宿(鞠子宿)のとろろ汁や府中宿の安倍川餅、島田宿の染め飯(そめいい)、 桑名宿の焼き蛤、草津宿の姥が餅(うしばがもち)は知られます。全国に53か所の関所が東海道に53の宿があるのは、財前童子が文殊菩薩から勧められて53人の老師の教えを経て、普賢菩薩から悟りを開いた物語から考えられたと言われます。
※写真は「奥三河観光協議会ホームページ」より