第7回 史跡・文化財めぐり「笹井・根岸地区」
実施日:平成29年9月2日(木) 8時20分集合~12時30分現地解散
天 候:晴 20度 風なし
地 区:笹井・根岸地区 コース距離 約5㎞
コース:狭山市駅西口広場→グリーンハイツバス停…笹井ダムサイト…笹井白鬚神社…宮地遺跡 …瀧不動…宗源寺…水富公民館(休憩)…明光寺(現地解散)→狭山市駅(バス)
参加者:髙橋先生 受講生31名 スッタフ6名 狭山歴史ガイドの会9名 総勢47名
第7回の史跡・文化財めぐりは笹井・根岸地区。
朝から天気も良く、史跡・文化財めぐりに最適でした。受講生は入間川沿いや樹木の多いコースをめぐり、最後まで熱心に説明を聞いていました。
今回は3名の機関誌・広報担当者から投稿がありましたので掲載します。
■笹井ダムサイト
・メタセコイアの化石は昭和49年(1974)に笹井ダム下流の入間川河床で見つかり、翌50年(1975)2月、埼玉県と狭山市・入間市の調査が行われた結果、株が残っているもの18株、株の中心はないが根だけ残っているもの9株、根の痕跡(こんせき)だけのもの2株の計29株が確認されました。
笹井ダムで朝の挨拶をされる髙橋先生 パネルでメタセコイアをガイド説明
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銀杏は氷河期を生き残った“生きた化石”だった!
機関誌・広報担当 第1班 永井 修二
史跡・文化財めぐり、今回は笹井・根岸地区です。入間川笹井堰で、アケボノゾウやメタセコイア等々の説明に加えて、銀杏(いちょう)についても話がありました。
ここ笹井堰付近でアケボノゾウとメタセコイアの化石が発見された。アケボノゾウは今から250万~70万年前にかけて生息していたゾウで、メタセコイアは1945年、中国で自生が確認されたときには“生きている化石”と紹介されたとのこと。
一方、日本に多く存在する銀杏の起源は、ある資料によれば、恐竜のいた時代よりも前で、約2億年前には世界的に多くの種類が分布していたと考えられているとのこと。その後の様々な気候変動を経て現在確認できる原種は、中国で野生に生育する1種類のみであり、それが古く鎌倉時代からそれ以前に日本に伝来し、日本各地に広まっていったと言われている。その為、世界古来の樹木の一つである銀杏は、氷河期を生き残った。
野々宮神社の銀杏(写真提供 受講生 永井修二)
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■笹井白鬚神社
・当神社で行なわれている笹井豊年足踊りは、昭和52年(1977)に狭山市指定文化財・無形文化財に指定されました。豊年足踊りは明治から大正にかけて、当地出身の桜井籐太郎が苦心を重ねて創作したものです。
・当神社を含む笹井地区が爆撃を受けたのは、太平洋戦争末期の昭和20年(1945)5月25日の夜11時頃から26日の未明のことです。B29爆撃機による空襲に遭い笹井ダムから白鬚神社を中心にしたこの一帯は火の海となり、焼失家屋や罹災者は多数を数え、死者13人、被災世帯69戸に達しました。
幸いにも本殿は無事で、本殿前の奏上門の破風を焦がしただけで類焼を免れました。炭化した黒い破風(はふ)がその時の名残です。
パネルで笹井豊年足踊りをガイド説明 空爆により本殿前の奏上門の焦げた破風
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笹井俳句愛好会の戦災俳句に思う
機関誌・広報担当 第2班 今井寿海
今回の史跡・文化財めぐりは、アケボノゾウとメタセコイアの化石が見つかった笹井堰の脇から根岸の明光寺まででした。
笹井の白鬚神社には太平洋戦争時の笹井地区の空襲による火災跡が奏上門に残り、また境内には笹井俳句愛好会の方の句が展示されていて「犠牲者の鎮魂と平和への願いを詠いつづけた・・多くの人に永く読みつがれて欲しい」とありました。俳句を読むと笹井地区に焼夷弾による火災で亡くなった人があったことにあらためて考えさせられました。
狭山に滝があるとは信じていませんでしたので、斜面から水が少し湧き出ている程度かと思いながら不動滝を訪れてみると流れる水量の多さはまさに滝でした。不動明王が祀られており修験者の行場になっていたのでしょうか。
明光寺の本堂の紙本地蔵十王図は、人間は死後に「閻魔大王」のことについては良く聞きますが、そのほかに10人の王により生前の行為を裁かれることなど「十王信仰」については知りませんでした。「初七日」「四十九日」「一周忌」「三回忌」などに供養をしますが、「十王信仰」ではその日にそれぞれの王が裁判を行いその際に遺族が供養することにより王の判決の結果が良くなり死者が極楽に行けるようにそのための供養であると知ることができました。
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■宮地遺跡
・市内には現在67ヶ所の遺跡が確認されています。この宮地遺跡の規模は630m×280mで、昭和51年(1976)に埼玉県選定重要遺跡になりました。
この遺跡は昭和46年(1971)2月27日鍬入れ式を行い、発掘調査の結果、入間川流域では有数の縄文時代中期及び奈良・平安時代の大規模な集落遺跡で、埋蔵文化財が数多く所在していることが判明しました。
■瀧不動
・このお堂の不動明王は、入間川左岸の段丘から湧き出す水が、滝となって流れ落ちるところに祀られたところから滝不動と名づけられました。
本尊の不動明王は右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)を持った舟形光背の浮彫立像で、創建は不明です。湧き水は1年中枯れません。
宮地遺跡の遺跡を探す髙橋先生と受講生 瀧不動をガイド説明 台風の後で水量が多い
■宗源寺
・当寺は金井山(かないさん)宗源寺といい、宗派は曹洞宗で、本尊は木造宝冠釈迦如来坐像です。
創建は慶長年間(1596~1615)といわれ、慶安2年(1649)に3代将軍家光から寺領5石の朱印状を賜っています。
・境内に隣接する墓地には、この寺を開いた旗本土屋家の墓所があり、墓地中央にある土屋昌吉の墓には「宗源院殿鉄雄全柱居士」と刻まれているので、寺号は昌吉の戒名からとったものであることがわかります。
■明光寺
・紙本地蔵十王図付他二幅の図は制作者、制作年代は分っていませんが、「切金(きりかね)」という技法を使った本格的な仏画で、人物の描き方や構図が大変優れており、まれに見る傑作だということで昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文化財・絵画に指定されました。
・この前の道は国道407号の旧道ですが、江戸時代の日光脇街道跡で、日光火の番街道,千人同心街道とも呼ばれていました。
現在も豊水橋の手前から金井坂までの約500mが現存しています。この街道は根岸村を南北に通る街道で、江戸時代に八王子千人同心が日光東照宮の火の番御用のために整備された道です。
明光寺の由緒を説明されるご住職 江戸時代の日光脇街道跡をガイド説明
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笹井・根岸地区をめぐって
機関誌・広報担当 第6班 島方 光男
最初の目的地、笹井ダムへグリーンハイツ行きバスを狭山市駅で待つ間、爆音する方向を見上げると青空の中、明日の航空祭を控えて戦闘機の編隊飛行の練習を愚然にも見ることが出来、スタートから今日は良き日なる予感がしました。
意外と大きな団地を抜けて先日の台風の大雨で増水しまだ乾いていない入間川河川敷を歩き笹井ダムに到着。
メタセコイヤの化石のメタセコイヤは、和名をアケボノスギとも呼ばれスギが常緑針葉樹であるのに対して、秋になると褐色に色づき、冬には葉を落とす落葉針葉樹で、智光山公園でも見られます。
自治会館の横に1本あったが、建物に影響がある為に伐採、でも対面の公園内に2本現存し、狭山市で1974年から笹井堰下流の入間川河床で見かった29株の根の痕跡が残っているのを確認。又、アケボノゾウは、250万~500万年前の像の仲間で、キバが大きく体は小さい。1975年笹井堰上流の東八木(ひがしばちぎ)からほぼ1頭分に相当する58点の化石を出土され全身の骨格化石は、笹井のものが全国で初めてのことです。
ヒヨドリがさえずり鳴く、白髭(しらひげ)神社は、旧笹井村の総鎮守で創立は不明で伝承によると15世紀にまで遡るのではないかとされる。
この一帯は、太平洋戦争の1945年5月25日、B29爆撃機による空爆に遭い、大被害を受け奏上門の破風(はふ)をよく見ると黒く炭化している部分があり、この時の焼け跡です。
宮地遺跡は、入間川左岸段丘上にあり、縄文時代中期(4000~5000年前)と奈良・平安時代の集落跡で最大の調査は笹井小学校建設に伴う1981年から多数の住居跡、多量の土器・土製品・石器など遺物が出土される。
民家前のブロック塀上に遺物片が置かれ、主の方が良かったら持ち帰っても良いとの好意のお言葉に黒曜石製=(黒緑色ガラス質で割れ目は貝殻状でやじり・刃物などの材料)、石鏃(せきぞく=やじり)?らしき破片を一つ頂きました。
滝不動は、下町で見られる民家の路地を入った奥詰った場所にあり、入間川左岸段丘から湧き出す水が滝となって流れ落ちる所に祀られた不動明王は、修験者=山伏の行場には必ずと言ってよいほど見られ、地元の篠井家・渋谷家(地元の篠井家同様に修験者〈山伏〉を取り纏めた一族。資料は少ない)は多くの山伏を配下に治め絶大な権力があった。
途中、滝不動から湧き出す水が此の所の雨・台風の為に住宅地の中を通る水路は水量が増し流音を轟かしながら流れる脇を歩き、映画「野菊の墓」のロケ地である元醬油製造の旧家の屋敷を見ながら宗源寺に向かう。
手入れの行き届いて綺麗な宗源寺、江戸時代笹井村領主であった旗本180石余り有しする、土屋昌吉の墓は宗源寺墓所。100石余り有していた、土屋正久の墓は、笹井小学校前の林の中、烏坂の右手の富士浅間神社の脇にある。
木造宝冠釈迦如来坐像が本尊で、1762年製作されたと棟札の墨書銘から判明、宝冠を戴き、瓔珞(ようらく)と呼ばれる胸飾りを付け、笑みを浮かべ光背は透かし彫りで、下部の両脇には、迦陵頻(かりょうびん)=極楽に住む天女の姿をした妙音鳥とも言う像が刻まれている本尊です。ガイドさんも3年目にやっと、今日初めて拝観する事が出来たと言っておられ、私達は幸運の拝観日となりました。
明光寺の住職の強弱を付けた本音とも偽りとも聞き取れない話の後に、紙本地蔵十王図(冥途で死者を裁く王のこと)をスタッフが解説し、面白おかしく聴いて拝観しました。
明光寺門前・贅を尽くした久下家の屋敷(小規模な宿駅で御用を主体とした人馬や荷物の継ぎ送りが主な問屋)が日光脇往還(脇街道)で18世紀後半になると街道も一搬の通行がおおくなり、入間川に渡船を設け「根岸の渡し」と呼ばれ、市域で最初の渡船場だそうです。
髙橋先生の余談話で「戦後、水害で壊れた街道をスコップで整備していたのを見て、米軍基地の軍人がブルトウザーを使って一気に整備して終えた事を、市職員の渋谷さんが、これでは敗戦も当然の事と話された」帰る途中、髙橋先生に「地元の修験者の渋谷家の子孫ですか?」と聞いたら「そうかも知れない?」とおしゃっていました。
解散後、予定していた博物館行きの「茶の花号」バスに見学が長引いた為に乗り遅れ、狭山市駅行きに乗車し上広瀬で下車し徒歩約20分かけ、汗だくになりながら自宅にたどり着く。
以前同様にシャワーを浴びて至福の旨いビール飲む!!!
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