第4回 史跡・文化財めぐり「入間川地区」
実施日:平成29年9月14日(木) 8時20分集合~12時30分現地解散
天 候:晴 30度 風なし 暑さがもどり猛暑となった。
地 区:入間川地区 コース距離 約4.5㎞
コース:狭山市駅西口広場集合…綿貫家の墓地…福徳院…徳林寺…市民交流センター(休憩)…八幡神社…清水八幡…諏訪神社…慈眼寺…現地解散
参加者:髙橋先生 受講生32名 スッタフ6名 狭山歴史ガイドの会7名 総勢46名
第4回の史跡・文化財めぐりは入間川地区。8時20分に狭山市駅西口広場に集合し、最初のガイド地点の綿貫家墓地、福徳院、観音堂まで総勢47名で歩いて向かいました。初秋なのに暑さがぶり返し30℃を超える真夏日になりました。
前半は遅れ気味でしたが、最後のガイド地点の慈眼寺では遅れを取り戻し予定通りに終了することが出来ました。受講生は、暑さにも負けず脱落者は一人もなく完歩しました。
今回は3名の機関誌・広報担当者から投稿がありましたので掲載します。
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身近にあった史跡・文化財に感動!
機関誌・広報担当 第2班 今井寿海
当日の最高気温が30℃を超える真夏日となった講座後期の最初の史跡・文化財めぐりは私の地元の入間川地区でした。
最初の見学は綿貫家墓地でしたが狭山市駅西口開発で現在の福徳院の場所に移設される前は、家から狭山市駅の間のいつも歩いていた道路の脇の高台にあった墓地が綿貫家の墓地とは知らず、今となっては当時の墓地を見学しておけばよかったと。(もっとも綿貫家の屋号が秋葉原(神田)山下町として地名が残るほどの江戸時代の豪商あることも以前は知らなかった)
徳林寺では、本堂で住職から説明していただきました。本尊の宝冠釈迦如来の冠についての話、鎌倉街道の話、また墓地内に大きな涅槃像を建立中であることなど興味深く聞くことができました。
八幡神社は初詣などで何度も訪れていますが、参拝をするだけでしたので本殿の壁面に「琴棋書画(きんきしょが)」のような素晴らしい彫刻があることも知りませんでした。参拝をする多くの方も彫刻があることについて知らないのではないでしょうか。
清水八幡と北条政子の関係、諏訪神社の「なすとっかえ」「底なし沼と龍神」、慈眼寺の阿弥陀如来像と石仏などこのような史跡・文化財がいつも見なれている場所にあることに感動しました。
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■綿貫家の墓地
・綿貫家は江戸時代に栄えた豪商で、初代の綿貫庄左衛門は、16世紀半ばに上州綿貫村(現群馬県高崎市綿貫町)から入間川に移住しています。入間川では酒造業などを営み、江戸では米穀商を営むなど手広く商売を行い、18世紀前半には相当の財力を蓄えており、江戸後期には「西の鴻池・東の綿貫」と並び称されたと伝えられています。
■福徳院
・このお寺は綿貫家2代目の孫兵衛が創建したもので、本尊は綿貫家の守り本尊といわれる不動明王坐像です。2代目孫兵衛は不動明王への信仰が篤く、千葉の成田不動尊へ度々参詣し、多額の浄財を寄進していました。
・現在当院は徳林寺の管理下にあり、福徳院の隣に建っている観音堂は武蔵野33観音霊場の第17番札所となっています。
■徳林寺
・この寺は福聚山(ふくじゅさん)徳林寺といい、宗派は曹洞宗で、本寺は入間市金子にある瑞泉院(ずいせんいん)です。
・絹本着色釈迦涅槃図と釈迦八相図は昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文化財・絵画として指定されました。釈迦涅槃図はお釈迦様の臨終を描いたものです。釈迦八相図は、お釈迦様の生涯における8つの事跡を描いたものです。
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“スジャータ”にビックリ仰天
機関誌・広報担当 第1班 永井修二
「狭山の歴史講座」史跡・文化財めぐり、今回は第4回目、入間川地区です。講師及びスタッフの素晴らしい説明に受講生は相槌を打っていました。
徳林寺は入間川2丁目にある曹洞宗の寺院で、本尊は頭に宝冠を戴く釈迦如来坐像です。この寺は新田義貞が鎌倉幕府を攻める際に陣を張ったとの伝承があり、また、鎌倉公方の足利基氏が9年余りにわたり滞陣した入間川御所の地ともいわれています。
この寺には狭山市指定文化財、極密極彩色の仏画「釈迦八相図」があります。この仏画は、釈迦の生涯の主要な出来事八つを絵図にしたものですが、その内の一つ「乳粥(ちちがゆ)供養図」は、お釈迦様が長年の断食の末、骨と皮だけにやせ細っていた時に、村娘の“スジャータ”が乳粥(白飯とチーズを牛乳で煮込んだもの)を差し出しているものです。この乳粥のおかげでお釈迦さまは精気を回復し悟りを開きました。
余談ですが、某乳業メーカーのコーヒー用ミルク“スジャータ”は、このスジャータ嬢の名前に由来しているとのことです。何と商品名ネーミングの意外な話を聞いて、一同びっくり仰天です。
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■八幡神社
・当神社は旧入間川村の総鎮守で、創建については過去に数度の火災により古記録を失っているため不明です。祭神は応神天皇で、天照大神と春日大神を合祀しています。
・本殿は昭和48年(1973)3月1日に狭山市指定文化財・建造物として指定されました。今まで度々火災により焼失しており、現在の本殿は寛政8年(1796)4月から6年の工期をかけて享和2年(1802)7月に完成したものです。
■清水八幡
・清水八幡は清水冠者義高を祭神とする神社で、昭和52年(1977)4月1日に狭山市指定文化財・史跡として指定されました。
義高は木曽義仲の嫡男として生まれましたが、寿永2年(1183)に父義仲と源頼朝が一時不仲となったとき、和議の条件として当時11歳の義高は人質として鎌倉に送られました。その後、頼朝の長女大姫の婿になることになりました。
ところが父義仲が頼朝に討たれる事態となり、復讐を怖れた頼朝は義高の殺害を考えました。
これを知った大姫は密かに女装させて鎌倉を脱出させました。しかし、入間川の八丁の渡しまで来たところで頼朝の追っ手に捕らえられ、殺されてしまいました。
首は鎌倉へ送られましたが、残された胴体は哀れんだ地元の人が埋葬して墓を作ったといわれています。
■諏訪神社
・当神社の創建については古文書が失われたため分りませんが、古老の言い伝えによると信濃国諏訪大社の祭神を約400年前に勧請したということで、祭神は武御名方命(たけみなかたのみこと)です。
・「お諏訪さまのなすとっかえ」の祭事は平成9年(1997)6月2日に狭山市指定文化財・無形民俗文化財として指定されました。この祭事は毎年8月26日前後の土曜日と日曜日に行われます。今年は8月26、27日に行われました。
■慈眼寺
・当寺は妙智山慈眼寺といい、宗派は曹洞宗で、本寺は徳林寺と同じ入間市金子にある瑞泉院です。当寺の創建については不明ですが、草庵だった阿弥陀堂が建てられた後に同じ敷地内に創建されたものと思われます。
・阿弥陀堂の本尊であった木造阿弥陀如来立像は、昭和51年(1976)4月1日に狭山市指定文化財・彫刻に指定されました。
一樹存松(いちじゅそんしょう)により慈眼寺が開山される以前に現在地にあった阿弥陀堂の本尊といわれ、像高73㎝の一木造りです。
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狭山市の文化財・史跡を学べること、文化財・史跡の史実も然ることながら、それらに関わる「むかしのお話」や「逸話」から私なりに往時をしのぶことができるので面白く楽しみにしています。
「西の鴻池・東の綿貫」と並び称されたという豪商・綿貫家のお大尽としての逸話。他人の土地を通らないで江戸まで行けたとか、土蔵に仕舞ってあるお茶碗を並べると家の門から所沢村まで届いたとかの話し。すごい!!
綿貫家の屋敷の一部が現存している。保存は難しいのかな?
徳林寺の「子育地蔵尊」のお堂の周囲に河原から穴の空いた石を探して、これを供え願掛けをすれば、耳が聞こえるようになると願う当時の庶民の祈りが彷彿されます。
清水八幡宮。木曽義仲の嫡男・源義高が逃避行の末、ここが終焉の地の話。義高はどこへ落ち延びようとしていたのか。
髙橋講師のお話しでは、義高の側近で、義高の寝床に入って身代わりとなった海野幸氏の出身地・信州の海野(現・東御市)ではないかとの話。当時、嵐山地区はすでに源頼朝の支配下にあったと言うことから納得。そして「大河ドラマ・真田丸」の真田家は名族・海野家の分家という伝えも聞いている。
だから、歴史は面白く楽しい!!
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