第5回 史跡・文化財めぐり「堀兼地区」
実施日:平成29年10月5日(木) 8時20分集合~12時50分現地解散
天 候:曇 25度 風なし 朝方は冷えむ
地 区:堀兼地区 コース距離 約7㎞
コース:狭山市駅東口広場集合→狭山台南バス停…下新田の石仏群…権現橋の石仏群…堀兼神社…堀兼・上赤坂公園(休憩)…上赤坂の弁財天…堀兼新田…光英寺(現地解散)
堀兼農協前バス停の時刻が合わず、最寄りのバス停まで歩く(約1~2㎞)。
参加者:髙橋先生 受講生24名 スッタフ6名 狭山歴史ガイドの会7名 総勢38名
第5回の史跡・文化財めぐりは堀兼地区。
堀兼地区は距離が長く、朝方は涼しかったのですが、時間が経つにつれて気温が上がり、最後のガイド地点の光英寺では予定より20分遅れて終了しました。今回が一番距離がありましたが、受講生は頑張って歩き通しました。
今回は4名の機関誌・広報担当者から投稿がありましたので掲載します。
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歴史の見方が変わった!
機関誌・広報担当 第4班 川野辺 徹
「狭山の歴史講座」に参加して半年が過ぎました。この講座は、狭山市に関連して歴史を教えて下さるのでとても興味を惹かれ、毎回楽しみに聴講しています。
毎週の講義のほかに、月に1~2回、市内の史跡・文化財めぐりがあります。これまで、よく前を通るが寄ることも無かった神社やお寺で、「狭山歴史ガイドの会」の方々からそのいわれや歴史を聞き、見方が変わりました。
今回巡った堀兼地区の中では、堀兼神社が特に印象に残りました。江戸時代にこの地方が開拓されたときにその入植者の延命と子孫繁栄を願って建立されたとの石の棟札もあり、昔は信仰厚い人たちで賑わったことと思われます。しかし、現在は訪れる人も少ないようで寂しさを感じました。堀兼神社の歴史を知ってもらい、多くの人に参拝してもらいたいものです。
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■下新田の石仏群
・普門品読誦供養塔(ふもんぼんどくじゅくようとう)
この供養塔は明治3年(1870)2月に建てられた比較的新しいもので、普門品読誦供養塔といい、正面に「普門品供養」と刻まれているように、観世音菩薩普門品、一般に観音経という経典を一定回数唱えた記念として建てられた文字塔です。他に馬頭観音、六地蔵などの石仏が存在します。
■権現橋袂の石仏群
・権現橋の由来については、橋のたもとに子ノ権現が祀られているところから権現橋といわれ、その下を流れている川は不老川で、昔は「としとらずがわ」といわれました。他に月待供養塔、馬頭観音、地蔵菩薩などの石仏が存在します。
(左)権現橋袂の石仏群をガイド説明
(右)松平伊豆守信綱により整備さらた不老川 伊豆堀ともいわれる
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饂(う)飩(どん)は『鶴(つる)鶴(つる)・亀(かめ)亀(かめ)』で縁起良く!
機関誌・広報担当 第1班 永井 修二
今回の史跡めぐりは、早いもので5回目。8時45分に狭山台南をスタートし終点は堀兼の光英寺、12時50分の解散である。バスの便がなく北入曽の自宅まで歩いて帰宅、歩行計は何と1万6千歩である。
さて、権現橋の石仏群等の説明は、権現橋の由来は橋のたもとに「子の大権現」が祀られているためであり、この石仏は足の病に霊験あらたかであると伝えられていること。台座には施主として「堀金村中」と刻まれおり、江戸時代の史料を見ると「金」と「兼」が併用されていたとのこと。
更に、馬頭観音は18世紀半ば以降の建立で、物資の輸送や農耕に馬が盛んに利用され始めた結果、馬の供養仏として建てられたとのこと。さらに驚いたのは、この付近の不老川は真っすぐに流れており、これは知恵伊豆こと「松平伊豆守信綱」が造ったとのことである。
これらの説明に納得した後、次の目的地に向かっている道中、この辺に美味しいうどん屋があるとの話題となった。その時、以前、先輩から聞いた饂飩の話を思い出した。
それは、所沢や狭山では、昔、結婚式等の目出度い宴の締めに「うどん」が振舞われたとのこと。太く、腰の強い「うどん」は、お汁とともに“つるつる”とすすり、よく“噛んで”食べた。この時の「つるつる(鶴鶴)・かめかめ(亀亀)」が縁起良いと言われた所以である。鶴は千年、亀は万年長生きすると言われているからである。
皆さんも今度、饂飩を戴くときには、この「鶴鶴・亀亀」の話を思い出しながら美味しく食べてください。きっと長生きできること間違いなしです。本当に。
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■堀兼神社
・当神社は江戸時代まで浅間宮と呼ばれていましたが、明治初期の神仏分離令の関係で神社であることを強調するため、明治4年(1871)に浅間神社と改名されました。その後、明治の終り頃に発令された神社合祀令によって、近郷の小さな神社が次々と合祀され、明治42年(1909)に堀兼神社と再度改められ現在に至っています。
・堀兼神社神楽殿の裏に3基の庚申塔、出羽三山供養塔などが存在します。
・堀兼之井は昭和36年(1961)9月1日に埼玉県指定文化財・旧跡に指定されました。
堀兼之井は日本武尊が東征のおり、水がなくて苦しむ住民を救うため富士山を拝んで掘ったものと伝えられています。石の欄干をめぐらした直径7.2m、深さ1.9mの井戸の中央には石組みの井桁があり、現在は大部分が埋まっていて、かつてはどのような姿であったかは不明です。
■上赤坂の石仏群
・この弁財天は、建てられたのは元禄13年(1700)11月です。頭に鳥居を戴き、右手に宝剣(現在は欠けてない)、左手に宝珠を持つ姿に造られ、台座には波を切って走る帆掛舟が刻まれています。交通量が多いため休憩所の堀兼・上赤坂公園でガイド説明をしました。
堀兼・上赤坂公園で上赤坂の弁財天をガイド説明 上赤坂の弁財天を解説される髙橋先生
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道しるべ刻まれている石仏
機関誌・広報担当 第2班 今井 寿海
堀兼地区の史跡・文化財めぐりでは、旧鎌倉街道の枝道(堀兼道)に道しるべを兼ねた石仏が多くあり、江戸時代に村の人々が道しるべを建て、街道を行く人が迷わないようした心遣いが感じられる見学でした。
上赤坂の弁財天の石仏は、弁財天が水の神様として信仰されてきたことなど説明がありましたが、新田開発が進み大雨による洪水から農地を守ることや、新河岸川を利用した江戸との物資の運搬の無事を祈り道しるべを兼ねた石仏を建てる人達の信仰心が少しわかるように感じました。
このような石仏の多くが、道路の拡張などで元の場所から移動していたり、寺、墓地、神社などに移設されて説明を聞かなければ元の位置や石仏の向きが分からなくなってしまうことに寂しさがあります。
堀兼の新田開発は、私が狭山市に越してきたときに市の地図や航空写真を見て、堀兼地区などがきれいに区画整理されていることを知っていましたが、いつの時代に行われたのか最近まで知りませんでした。堀兼の畑の中でガイドの方の説明を聞きながら、周りを見渡して初めて江戸時代にこれほどの広さの開墾がほとんど人力で行われたことや区画の中に雑木林・家・お墓など計画的に作られていることに驚きました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~■堀兼新田
・土地が広く整然と区画されているこの周辺一帯が「堀兼の新田」で、堀兼村は江戸時代前期に開発されて誕生した新田村です。
新田開発に着手したのは慶安2年(1649)で、開発を命じた人は川越藩主で当時老中であった松平伊豆守信綱でした。新田の特徴は、土地区画が整然としていることです。
入植者に与えられた土地は、平均間口が約20間(約36m)・奥行き約460間(830m)の長方形の土地で、面積は1戸当たりおよそ3町歩(3ha)と広大でした。
■光英寺
・当寺は堀金山山王院光英寺といい、宗派は真言宗豊山派で、本尊は木造大日如来坐像です。
創建については、数度の火災により古記録を失っていて不明です。
・江戸時代の記録によると、堀兼地区には4つの寺がありましたが、明治時代に他の寺は廃寺となり現在はこの光英寺のみとなっています。なお当寺の山門は江戸の護国寺の裏門が移設されたと伝えられています。
山門 江戸の護国寺の裏門が移設されたと伝えられている 石仏群をガイド説明
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史跡めぐりの後、家で飲むビールは最高
機関誌・広報担当 第6班 島方 光男
暑さ寒さも彼岸までと昔の人はよく言ったもので、今朝は20℃以下の気温で肌寒く、空を見上げると秋空の雲の代表うろこ雲に覆われ、堀兼地区の畑を見ながら北入曽にある常泉寺が管理している下新田共同墓地へ向かった。
墓地内の普門品読誦(ふもんぼんどくじゅ)供養塔の台座には「右 扇町屋 左 三ケ島八王子道」、また馬頭観音供養塔にも「右 新かし(河岸)左 川こへ(越)」と、昔の道しるべ(道標)、現在の道路標識が刻まれている。馬頭観音・庚申塔・弁財天などの供養塔は、信仰・願掛け・記念碑のために建立され、往来する人々の通行に役立ってもらいたいとの思いで善行を行った当時の人々が垣間見られた。
堀兼神社(浅間神社)の前を何回も通行するも狭山市指定文化財の由緒ある神社とは、知りませんでした。堀兼之井の手前の石碑は堀兼村名主の宮澤氏が建てたもので、裏面に、(作者 清原宣明)江戸 葺屋町(現在の日本橋人形町3丁目)石江との記載に何故か興味が湧いた。
上赤坂の弁財天の台座に刻まれた帆掛船・波は、新河岸川を利用しての舟運(しゅううん)が江戸との間で開設されると、物資の集散地として栄え江戸の近くで葉物小松菜(小松川)、中間点では大根(練馬)、遠方では、日持ちの良い根菜類の川越芋などを栽培し新河岸川を往復する船を安定した農業経営に必要な下肥や灰をもたらしてくれる宝船に見立てたのではないかと推察されるとの高橋先生の話に聞き入ってしまう。
堀兼の新田開発では、ガイドさんが説明の中でキーワードとして所得を上中下とした場合、下の上の人は1石➡1反(300坪)にて米の収穫が出来るとして、お米1日3合を食べると年間に食べる量を1石と表した。
前回の座学で、農民に御林(藩の雑木林=山)を農民にくず掃き=落ち葉拾いを管理させた代りに雑木林の薪を納めさせた。それを更に村名主に管理報酬額として年1石支払ったそうです。
光映寺の敷地内には、墓地が無いとのこと。新田開発の開墾の主体者が次男・三男の家督を継げないために生家の菩提寺を旦那寺とした。又、寺の門は文京区の護国寺にあったものを移築したそうです。
土地区画が整然と並んだ敷地内には、家紋入りの真白な壁の土蔵が必ず1軒毎に有り、その地区の素敵な景観を醸しだしていました。
狭山市の歴史、郷土の文化・庶民生活の暮らしを楽しく学べた史跡めぐりでした。
五感アンテナ受信全開にて、史跡めぐりで脳みそに歩行にかなりの負荷を与えた後、帰宅してシャワーを浴びてのビールが最高に旨く幸せな至福の充実感を味わいました。
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