第9回 史跡・文化財めぐり「東三ツ木から青柳地区」
実施日:平成29年12月7日(木)8時20分集合~11時40分現地解散
天 候:晴 15度 朝方は寒かったが時間が経つにつれて、風もない小春日和なりました。
地 区:東三ツ木から青柳地区 コース距離 約4.5㎞(バスがなく、新狭山駅までプラス約2㎞)
コース:新狭山駅南口広場…三ツ木公園…東三ツ木の薬師堂…羽黒神社…加佐志の共同墓地…寿荘(休憩)…鎌倉街道跡…青柳の馬頭観音…青柳の地蔵…氷川神社(現地解散)…新狭山駅
参加者:髙橋先生 受講生28名 スッタフ6名 狭山歴史ガイドの会6名 総勢41名
第9回の史跡・文化財めぐりは東三ツ木から青柳地区。
寒くなりましたが天気も良く、史跡・文化財めぐりに最適でした。受講生は東三ツ木から青柳地区の久保川、窪川の辺をめぐり、最後まで熱心に説明を聞いていました。
今回は2名の機関誌・広報担当者から投稿がありましたので掲載します。
■三ツ木原古戦場跡
・14世紀から16世紀にかけて関東地方は戦乱に明け暮れした時代でした。
三ツ木原合戦は天文6年(1537)7月11日から15日まで続きました。現在の狭山市東北部から川越市西南部の広大な地域に、北条方7千余、上杉方2千余、合計約1万人もの軍勢が戦いましたが北条方の大勝利に終わりました。
■東三ツ木の薬師堂
・この薬師堂の本尊の木造薬師如来坐像は14世紀に当地を開いた金子国重の守護仏といわれています。
・この薬師如来坐像は当薬師堂縁起では秘仏とされています。この像は奈良時代に行基が刻んだといわれましたが、昭和3年(1928)の調査の結果、底の部分に「応永6年(1399)9月18日 作者常仁」と墨書銘文が発見されました。
木造薬師三尊像並びに十二神将は平成29年に狭山市指定文化財・彫刻として指定されました。
東三ツ木の薬師堂をガイド説明 本尊の木造薬師如来坐像(平成29年5月7日撮影)
■羽黒神社
・応永年間(1394~1427)に出羽国羽黒山のふもとに、源義家に仕えた大宅光任(おおやみつとう)を祖先にもつ伴蔵人一俊(ばんくらんどかずとし)という人が住んでいました。
ある時羽黒権現が夢枕に立ち、「おまえは武蔵国へ行き土地を開拓し居を定むべし」とのお告げがあり、仲間とともに武蔵国に来てこの地を開拓して永住しました。
・当神社の菩提樹は昭和48年(1973)3月1日に狭山市指定文化財・天然記念物として指定されました。
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機関誌・広報担当 第1班 永井修二
史跡・文化財めぐり、今回は最終回、東三ツ木から青柳地区です。羽黒神社境内にある菩提樹(シナノキ科)は包葉プロペラで実を飛ばす珍しい樹木でした。
羽黒神社と菩提樹
羽黒神社は加佐志の産土神(うぶすながみ)で、祭神は稲倉魂命(うがのみたまのみこと)です。創建は応永年間(1394~1428)といわれ、伴蔵人一俊(ばんくらんどかずとし)が羽黒権現のお告げに従って出羽国から当地に居を移した際に氏神として祀ったとされています。
菩提樹は拝殿左側にあり、幹回り1.9m、高さ10m、樹齢は550年と推定されます。ここの菩提樹は中国原産のシナノキ科の落葉高木で、毎年6月から7月にかけて淡黄色で香りのよい花が咲き、包葉の中央に実を結ぶのが特徴です。実の大きさは直径5~8㎜ほどの球形で、灰褐色の毛が密生しています。
実は熟すと苞葉と一緒に落下します。その時、苞葉がプロペラの働きをして、母樹から遠くに実を飛ばす構造となっています。訪れた際、運よく実を拾いました。拾った実を包葉と一緒に上に投げたところ、ひらひらと回転しながら飛んでいました。本当に始めて見る不思議な構造でした。
拝殿左側の菩提樹 包葉の中央に実をつける(写真提供 受講生 永井修二)
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■加佐志の共同墓地
・耳だれ地蔵と呼ばれるこの地蔵菩薩は、元禄7年(1694)8月に加佐志村の斉日講により現当二世安楽を願って建てられたものです。この地蔵菩薩は何時の頃からか耳だれに御利益があると伝えられています。
・3体の地蔵菩薩 この3体の地蔵菩薩には、次のような言い伝えが残っています。
明治30年代(1897~1906)に加佐志村で赤痢が大流行して死者が20余名も出た時、「由緒ある地蔵菩薩が石橋の下に埋もれており、これを掘り出してお祀りすれば赤痢は治まるとお告げがあった」という人がいたので村中で相談し橋の袂を掘ったところ3体の地蔵菩薩が埋まっていました。そこで現在の場所に安置して供養をしたところ、赤痢が下火になったというものです。
■鎌倉街道跡
・鎌倉街道という名称は江戸時代に編さんされた「新編武蔵風土記稿」の地誌や村絵図に記載されていたことから、鎌倉街道と呼ばれるようになりました。
それ以前は上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)などと呼ばれていました。ここは上道の枝道で「堀兼道」と呼ばれる道です。
■青柳の馬頭観音
・この馬頭観音は、一面六臂(いちめんろっぴ)の浮彫立像で享保14年(1729)3月に建てられたものです。
馬頭観音は観音菩薩の変化仏の一つで、六道のうち畜生道にあって、ここに墜ちた衆生の救済にあたる仏とされています。
特徴は浮彫像の右斜め上に「うはっきゅう」という珍しい文字が刻んであります。この文字は本来「鳥八臼」と書かれるのですが、ここでは「鳥八旧」となっており、烏ではなく鳥に、臼が旧となっていて、3つの文字を組み合わせたものです。
■青柳の地蔵
・久保川の畔の小さなお堂に祀られている地蔵菩薩は、享保14年(1729)に青柳村の念仏講の人々によって石橋の完成を記念し、石橋の永続性とこの橋を渡る人々の安全、そして村の平安を願って石橋供養塔として建てられたものです。
昔この辺一帯は葦が茂り、久保川には土手も無く土地の人々は困っていましたが、近くで茶店を営む「せんまつ」という人が草を刈り、川などを整備している時に、この地蔵菩薩を発見して祀ったということで、その後誰いうとなく「せんちゃん地蔵」と親しみを込めて呼ばれるようになりました。
青柳のせんちゃん地蔵をガイド説明 せんちゃん地蔵(左)と一石六地蔵(右)
■氷川神社
・当神社の創建や由緒は古い記録が全く残っていないために不明です。明治45年の「神社由緒調書」にもこうした記録がなく、わずかに現在の社殿は明治14年(1881)12月に再建されたと記されているのみです。
・境内の富士塚は浅間塚とも呼ばれています。富士塚の頂上に富士嶽神社と刻まれた富士信仰によって建てられた富士講碑があります。この富士講碑の左右には、猿の石像が建てられているのが特徴です。
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機関誌・広報担当 第1班 永井修二
氷川神社の鳥居説明から色々な事を学びました。
氷川神社の祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、武運の守護神として武士の崇拝が篤かったと言われています。
青柳の氷川神社は古記録が失われていることから創建は不明です。
神社の正面、新河岸街道に面して朱色の鳥居が立っています。
その鳥居は、上部の横材とその下の貫 (ぬき) の中央に額束(がくづか)がある“明神系”の鳥居とのことです。
WEBで調べたところ、鳥居の種類は60種以上あり、“明神系”と“神明系”に分類されるとのこと。
明神系は、明神鳥居、八幡鳥居、山王鳥居などで額束があり、一方、神明系は、伊勢鳥居や靖国鳥居などで額束がありません。
余談となりますが、鳥居の色は白木と朱色のものがあります。
もともと神社の鳥居は「神聖」という意味を持つ白木が主流だったとのことです。その後、仏教の伝来で色が変化しました。仏教が日本人に受け入れられると、神様と仏様を一緒に祀った「神仏習合」という考え方が定着しました。 朱色は仏教から伝わってきた色で、神仏習合により鳥居も朱色に変えられていきました。仏教では朱色は魔よけの意味があります。
鳥居は、神の領域と人が暮らす俗界の境界(「結界」)を表すもので、鳥居をくぐる前には一礼をし、参道は神様が歩く中央部を避けて歩くのが仕来りとなっています。
氷川神社の鳥居 (写真・図 提供 受講生 永井修二) 鳥居の名称(出典:Goo国語辞典)
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機関誌・広報担当 第6班 島方光男
今日は、大雪(北風が日増しに強くなり、しばし降雪を見る頃)で霜柱を踏む音を聞きながら東三ッ木原古戦場跡の碑に着く。
天文6年(1537)4月に病没した上杉朝興(ともおき)=朝定(ともさだ)が父の家督・遺志を継ぎ、北条家2代目の北条氏綱(うじつな)打倒を誓ったが、朝定の動向を推察した氏綱は、河越城を急襲する為に三ッ木に着陣し、同月15日から激しい戦いを繰り広げ三ッ木の合戦は、北条氏の勝利に終わり、念願の河越城を手に入れた北条氏綱は、武蔵国の全面支配への足がかりを築く。
尚、城山砦は、別名を上杉砦と言ってそれは、天文14年(1545)9月から半年近くにわたり、上杉憲政が陣を敷き同年6月(1537)7月に北条氏の手に落ちた河越城を奪い返す為だった。
東三ッ木の薬師堂の本尊は木造薬師如来坐像で、14世紀に当地を開いた三ッ木国重(くにしげ)の守護仏といわれ、国重が西三ッ木(入間市)に住んでいた頃の話で、大火事に遭って全てを失った国重の夢枕に薬師様が現れて守護仏の無事を告げられ、お告げのあった場所から守護仏を見つけだして安置した所、再び薬師様が夢枕に立ち「西三ッ木から東方の地に居を移せ」とのお告げにより現在地に移住して堂舎を建てたとの伝説が残っています。国重の旧姓は金子で鎌倉幕府最後の執権だった北条高時の家臣と言われています。
羽黒神社の祭神は、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で、応永年間(1394〜1428)伴蔵人一俊(ばんくらんどかずとし)が出羽国添川(そえがわ)=山形県鶴岡市付近)から当地に居を移した際に、氏神として祀る。その後、奥州から当地に来て留まった所から、姓を『奥留』に改めたと伝えられています。加佐志から青柳にかけては『奥富』や『奥冨』を名乗る家が多く、これらの人々は同族であったと考えられ又、本家と分家との識別の為、点有りが『富』本家、点無しが『冨』として分家と判別したとも言われています。
羽黒山は、出羽三山の一つで明治時代までは、神仏習合の権現を祀る修験道の山であり、羽黒神社又、青柳の氷川神社の鳥居に見られる柱の前後に、稚児柱を持つ控え柱(ひかえばしら)両分鳥居(りょうぶとりい)は、神仏習合の神社に多く見られます。
加佐志の『耳だれ地蔵』は、元禄7年(1694)8月造立、斎日(さいにち)講の講員が二世安楽を願って建てもの。
休憩場所の寿荘は、狭山市が高齢者の保養に(宝荘・寿荘・不老荘)の3つの老人福祉センターの一つで、60歳以上の方が無料で風呂も11時〜16時まで(最終受付15:30)利用できます。
県内の鎌倉街道は、上道(かみつみち)・中道・秩父道の3本が通っていました。
このうち市内を通るのは、上道で、本道と枝道の2本があり、今回の枝道は、堀兼道と呼ばれ所沢から市内に入り、西武フラワーヒル団地や堀兼神社前を通って加佐志の現在地に至り、工業団地内で分岐して一方は奥富から柏原方面へ、一方は川越市の藤倉から大袋新田・池辺を経て、河越氏の館があった上戸(うわど)へと向かっています。
北条氏綱が上杉朝定の居城の河越城を攻めた時に利用したのもこの道でした。この枝道は、古代(奈良時代)には、東山道武蔵路の一部だったと推察されています。
馬頭観音とは、六観音・七観音の一つで宝冠に馬頭をいただき、分怒(ふんぬ)の相をした観音菩薩無病息災の守り神で、珍しい文字を刻む馬頭観音は、享保14年(1729)3月に造立され、市内で2番目に古いもので、この石仏の最大の特徴は、鳥八臼(うはっきゅう)です。室町時代末から江戸時代後期の墓標等に見られ、曹洞宗や浄土宗関係の墓に多く見られる合字です。又、髙橋先生の余談話で石仏の石材は、伊豆石で伊豆半島東岸から産する安山系の総称で江戸城の城郭石垣に利用しているものと同じだそうです。
せんちゃん地蔵は、久保川の手前にある小さなお堂に安置され、享保14年(1729)3月に青柳村の念仏講中により石橋供養塔として造立、この近くで茶店を営む『せん松』という名のお爺さんが久保川の草刈りをしていた時にこの地蔵を掘り起こした。
地蔵の台石は、明治5年(1872)に付け加えられたもので、正面に『中橋地蔵尊』と大きく刻まれ、右側面に世話人として4人の名前が見えますが、その中に『豊泉仙松』という人物がいるからで、『せんちゃん地蔵』の『せん松』とは、あるいはこの人を指してのではと考えられています。昭和35年奉納札に茶店と関わりのあった?矢部製菓店の名前がありました。
氷川神社境内には、富士塚・稲荷神社・第六天神社が祀られています。第六天は、市内には外に柏原の大六天、鵜木の第天神社(毎年5月第2日曜日『人形供養』の行事が行われていた。現在は行われていない)があります。
市内9地域の野外学習の史跡・文化財めぐりも、今回が最終回となり今まで知りえなかった郷土の史実・伝承・魅力を再発見し更に郷土愛を深める事が出来ました。
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