第4回 生業の体験を聞く・学ぶ “その3:入曾の茶仕事など”
写真 提供:スタッフ 米田香子
編集・文責:受講生 鈴木房子
11月21日(金)狭山元気プラザにおいて「さやまの生活文化伝承講座」の第4回目の講座が開かれました。今回は入曾地区でのお茶の生産の歴史についての講義でした。髙橋光昭先生、田口利明先生、横田洋志先生にお話を伺いました。
髙橋光昭先生から、入曾地区の新田開発とお茶の歴史についてのお話がありました。 現在の水野地区は、寛文6年(1666年)松平輝綱の命で、川越藩により新田として開発されました。この地には国府の役人が往き来するための井戸があり、これを利用して北入曾に人が住むようになりました。 現在「七曲りの井」の遺跡として残っています。お茶は800余年前、栄西が中国から種子を持ち帰り、栽培を始めました。狭山地方でお茶の木が育てられるようになったのは鎌倉時代です。明恵上人が現在の川越に植えたのが始まりです。当時は京都の宇治に下働き人として奉公し、お茶の技術を盗んだと言われています。
安政6年(1859年)開国して貿易が始まると、横浜に近い地の利を生かして生糸やお茶のアメリカへの輸出が盛んにおこなわれるようになりました。安政6年にはニューヨークへのお茶の輸出量は1.1%だったのが1881~1883年には47.2%に増えました。 それまで製茶は手もみでしたが明治に入り、日高市出身の高林謙三により製茶機械が発明されました。これによって生産量は4倍になりコストは1/3以下になりました。当時、お茶畑は冬の季節風を防ぐ為や、畑と畑の区切りとして植えられました(畦畔茶)が昭和30年代以降は本格的に茶畑として植えられるようになりました。狭山茶は、冷涼な丘陵地帯に多く栽培されており、じっくりと成長するために深い味わいが特徴です。最近では2番茶の消費方法として“和紅茶”等も作られています。
続いて横田洋志先生、田口利明先生によりお茶の木の植え方、茶摘みの方法についてのお話がありました。お茶は南北に植えるのが良く、東西に植えると北側が駄目になるそうです。昔は摘むのに手間がかかったので摘んだ翌日に製茶の作業をしたが、今ではその日のうちに出来るようになったそうです。 製茶の方法では、蒸し器を通過する時間の長短により色の濃淡が生じます。 蒸気を当てる時間が長くなると色が濃くなり“深蒸し茶”と言われるお茶になります。時間が短いと色が浅くなります。「色は静岡、味は狭山」と言われる所以です。 販売方法は、狭山では9割以上が、庭先販売だそうです。自分で値をつけ、自分の責任で売る方法で、経営の成り立つ面積は機械とのバランスもあり大体2町位と言われています。
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髙橋光昭先生は平成22年3月まで狭山市立・博物館館長を務められました。
※先日の狭山市制施行60年の記念式典では市政功労者の感謝状をうけておられます。
狭山市文化財審議委員会 副委員長
さやま市民大学 狭山の歴史学科講師
狭山博物館主催 古文書読解講座講師 等もなさっておられます。
田口 利明先生は, 農業・入曽を記録する 会 代表を務められています。
横田洋志先生は 狭山でお茶の生産、販売をされています。
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