狭山の馬車鉄道と偉人清水宗徳
日 時:10月11日(水)13:30~15:30
講 師:狭山ふるさと会 石川 隆 氏
受講生:出席14名(欠席2名)
講師の石川隆氏は、狭山ふるさと会所属で、さやま市民大学の「ジャーナル講座」、「地域ふるさと学講座」等の受講履歴を持ち、地域活動では「狭山ふるさと会」を始め「残しておきたい狭山の風景参画」、「童句研究会」、「五行歌会」、そして「博物館ツアーガイド」、学校での学習支援などなど、多方面で活躍されています。今回は予定した講師が都合で講演不可となったことで、急遽、講師をお願いしたところ、快く講師を引き受けて頂き、本日の登壇となりました。
1 地域に尽くした清水崇徳
清水宗徳の出生から亡くなるまでを、年表を交えながら話がありました。
- 清水宗徳の生い立ちと若き村長
天保14年(1843)12月1日上広瀬村の名主の跡取りとして生まれ、文久3年(1863)広瀬神社の神職を務める父親の跡を継ぎ、20歳で上広瀬村の名主になっています。
- 教育者で神官
学制発布前の明治4年(1871)に広瀬郷学校を設立し、同6年には広瀬神社境内に「幼童学校」を開校しています。
- 入間川の渡し船
明治8年入間川の渡し船を開業しました。大正9年富士見橋が開通したことで終了しています。利用料については、広瀬村から入間川村へは無料にしていましたが、逆方向では有料でした。この不公平な扱いは、入間川村の方々に評判が悪かったようです。
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器械製糸工場「暢業社」の設立
産業の発展にも力を注ぎ、生糸生産の努力をし、妻(せき)や近郷の女性達を富岡などの製糸工場に派遣して技術を学ばせました。明治10年県内で初の器械製糸工場「暢業社」を設立、生産する生糸の品質向上に努めました。埼玉県令からは模範工場として絶賛され、「広瀬の斜子織」として輸出されました。米国シカゴで開催されたコロンビア世界博覧会で「名誉賞」を受賞しています。
- 養蚕研究
明治3年自費で桑畑を購入、養蚕研究を本格化させています。明治21年蚕の改良を図る公業館の設立に尽力しました。54才の時、「養蚕読本」を著しています。
- 埼玉県議会議員、衆議院議員
明治12年第1回埼玉県議会議員選挙で当選し10年余り県議会議員を務めている。
明治23年には第1回衆議院議員選挙で立候補し当選するも、2期しか務めていません。
- 北海道の開拓など
明治24年北海道開拓に専念すると宣言、24名を引き連れて北海道奈井江村に入植。
「広瀬神社」(奈井江神社)を建立するも、明治34年には引き上げています。
2 地域経済の発展のための鉄道の開設
① 川越鉄道
川越鉄道は、現在の西部新宿線と国分寺線です。明治25年に川越鉄道布設本免許状を受領し、同26年から工事着工、同28年に漸く全線開通となりました。現狭山市駅のホームはカーブしていますが、線路は傾斜しておらず、珍しい駅構内線路となっています。これは停車を前提として線路を敷設しているためです。
② 入間馬車鉄道
明治27年入間馬車鉄道施設免許取得し、開通に向け準備、電気鉄道への変更を目論みましたが、理解が得られませんでした。明治32年になって、ようやく入間馬車鉄道㈱を設立、入間銀行頭取の増田忠順が初代社長に就任しました。しかし会社は赤字続きとなり、同35年に宗徳が2代目社長に就任して経営再建の大なたをふるい、赤字を解消しました。宗徳死後、飯能と入間川間で1時間余り所要したことや武蔵野鉄道開業などで経営は一層厳しくなり、大正6年会社は解散しました。
③ 武蔵野鉄道
現在の西武鉄道池袋線にあたります。大正4年に池袋―飯能間を開業、そして大正11年には池袋―所沢間で、大正14年には全区間を電化しました。
3 狭山から飯能へ馬車鉄道が走る
- 入間馬車鉄道の路線図
入間馬車鉄道の停車駅は、入間川(現在の狭山市駅)―菅原―御諏訪下―河原宿―広瀬―根岸―笹井―八木―野田―岩沢―双柳―前田―飯能でした。入間川駅から菅原駅間は、馬車鉄のために、急な坂道をなだらかにしたそうです。動力が馬なので、所々の駅には交代の馬が数頭待機していました。入間川と御諏訪下間では、線路を入間川町と青梅町を結んだ中武馬車鉄道と共用していました。
- 万造じいさんの馬車鉄道の夜ばなし
馬車鉄道の馭者(ぎょしゃ)をしていた桜井万造氏や入間馬車鉄道3代目社長の曾孫山崎滋夫氏、狭山市立博物館の元館長高橋光昭氏らの対談を、今坂柳二らが編集した「万造じいさんの馬車鉄夜ばなし」(平成14年)の紹介がありました。馭者は憧れの仕事のようで、給与が学校の先生より高額、制服もきりりとして、時代の先端をいく憧れのハイカラサンであったそうです。馬車鉄道の収入源の1つとして「馬糞」があり、馬糞を集め、化学肥料の無かった時代でもあり、肥料として農家に販売していました。
- 「入間馬車鉄唱歌」(今坂柳二作詞、砂田弘之作曲)
狭山市文化団体連合会が第10回狭山市民芸術祭(2009)で上演した「さやま民話風土記」で演じられた「入間馬車鉄道絵巻」を投影してくれました。影絵風の画面と共に1番から12番まで聞かせて頂きました。歌詞の最後に「ゆらゆらゆうらり がったんこ ごとごとごっとん ごっとんこ」と、リズムも歌詞も楽しい歌でした。
4 宗徳のお墓
清水宗徳(66才没)の墓は、生前の功績を称えて、昭和55年(1980)狭山市文化財に指定されました。お墓の台座の下には、入間川鉄道の軌道レールが敷かれています。
5 おわりに
資産家だった清水宗徳でしたが、晩年は私財を使い果たしたともいわれています。出資した者のなかには財産を無くした方もおり、決して評判が良いとは言えなかったようです。宗徳が起こした事業で姿を消したものも多くありますが、川越鉄道は西武新宿線となり、今も私たちは恩恵を受けています。
質問タイム
質問:入間馬車鉄道の起案者は?
回答:清水宗徳は、馬車鉄道の設置免許を申請しましたが、免許がおりる前に、川越鉄道の施設に注力しました。軌道施設に関する権利の一切を譲渡しています。
質問:入間川駅から菅原町までは、どのような傾斜地でしたか?
回答:当時の地図によると、非常に急な傾斜地で、階段があったようです。馬車鉄道を運行するために、緩やかな坂にしたのです。
質問:清水宗徳とまちづくりについて?
意見:狭山市がまちづくりを考える時、清水宗徳に共感できない方々がいたことは確かなようですが、清水宗徳は狭山一の偉人であり、狭山茶以上に大事な存在ではないでしょうか。明治時代に先進的に川越鉄道や入間馬車鉄道の敷設を実現させ、製糸工場暢業社による広瀬斜子織が世界博覧会で栄誉賞の受賞をもたらたことは、評価しませんか。今から10年数年前の「入間馬車鉄道絵巻」に始まり、令和版「狭山市郷土かるた」、遊糸会による「広瀬斜子織」の復元事業は、まさにまちづくり活動となっています。広瀬神社に刻まれた清水宗徳翁の足跡も、語り継いでいくでしょう。小学校の社会科副読本にも取り上げられており、次世代に継承されること間違いなしです。
受講生感想
・斜子織のことは聞いていましたが、狭山に製糸工場があったことは初めて知りました。馬車鉄道の生い立ちが良く分かりました。話が分かり易く、楽しかったです。
・入間川―飯能間の馬車鉄道、特に旧入間川駅前の坂道車道の工事が行われた結果により、現在の図書館前の坂道のある理由が良く分かりました。その坂道のため、馬車にブレーキ操作の必要性が分かりました。
・清水宗徳という人物をまったく知らなかったが地域の発展のために成し得た業績について知識を深める事ができた。
・宗徳さんはもっともっと知らせていいと思います。