「伊勢西国道中記」を読もう 3
日 時 : 7月2日(火)13:30~15:30
場 所 : 狭山元気プラザ第2教室
講 師 : 狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
今日は、小田原宿から吉原宿までを読み進めます。
①【原 文】
茗荷屋畑右衛門裏座敷諸道具築山
見物致べし此家茶屋也
一畑より箱根迄之内御神領十六丁道
箱根大権現迄六り八丁
道より四丁寄源よりとも公
富士のまきかりの時大釜弐つ左の方に有
左の方に寺曽我兄弟の宝物有
何人にても百文也
関所前に昼喰百文 杉屋新吉
御関所
三拾人手形にて通候
【書き下し文】
茗荷屋畑右衛門裏座敷・諸道具・築山
見物致べし。此の家茶屋なり。
一畑より箱根までの内、御神領16丁道
箱根大権現まで6里8丁
道より4丁寄、源頼朝公
富士の巻き狩りの時大釜弐つ、左の方に有り。
左の方に寺、曽我兄弟の宝物有り。
何人にても100文なり。
関所前に昼喰百文 杉屋新吉
御関所
30人の手形にて通候。
②【原 文】
相州豆州 国境也
一山中え 一り半
一三島え 三り廿八丁
社領 三百石 三嶋大明神
弐百三十弐文 相模屋利兵衛泊り
一沼津え 一り半
五万石 水野出羽守
一原え 一り半
一吉原え 三り六丁
【書き下し文】
相州豆州 国境なり。
一山中へ 1里半
一三嶋へ 3里28丁
社領 300石 三嶋大明神
232弐文 相模屋利兵衛泊り
一沼津へ 1里半
5万石 水野出羽守
一原へ 1里半
一吉原へ 3里6丁
難 読 字
「致べし」に濁点が付き、「よりとも」は「頼朝」です。「冨士」は異体字です。ワ冠の冨は11画の奇数で、縁起が良い画数です。現在、「冨士浅間神社」は、全てワ冠を使っています。「杦屋」は「杉屋」(他に椙)で、「三嶌」と「三嶋」は異体字です。島「鳥の下に山」と書く旧体字は、渡り鳥が休む、離れ小島からできた漢字です。
現代語訳
畑宿本陣の茗荷屋で玄関や上段の間を備えた座敷や諸道具が飾られた、立派な建物と見事な築山を見学しました。そして、東海道の難所の石畳を上り、別当寺の箱根山金剛王院東福寺が支配する箱根(筥根)三所大権現(本地仏は文殊菩薩・祭神はニニギノミコト・200石)を参拝しました。源頼朝(1147~1199)が富士の巻狩で使用した大釜や曽我兄弟の宝物を拝観します。
箱根関所前の杉屋で昼食(100文)を摂り、一行は関所を無事通過しました。相模国と伊豆国の境界を越え、山中城跡がある山中宿を通り過ぎ、三島宿へ向かいます。伊豆国一宮の三嶋大明神(本地仏は薬師如来・垂迹神は事代主神と大山祇命・社領3百石)を参拝します。
19日、相模屋(230文)で宿泊します。沼津宿には水野出羽守の沼津城(石高5万石)があり、原宿から吉原宿へ進みました。
解 説
江戸時代の終わりまで、寺院の境内に、神と仏が仲良く暮らしていました。権現は神仏習合の仏教的な考え方で、仏が仮に神の形で現れることです。そして、明神は仏教的から見た神の称号です。
往来手形には「差上申一札之事 一、男 参拾人 右之者共此度巡礼仕候間、御 関所無相違御通被 遊可被下候、為後日通手形依如件 入間郡南入曽村新義真言宗延命寺印 安政参年丙辰極月日 諸国御関所 御役人衆中」と書かれていました。江戸時代、関所では「入り鉄砲に出女」を厳重に取り締まりました。往来手形を持っていなかったり、手形が事実と内容が違ったりすると、通過できません。箱根関所は、背後が屏風山と箱根峠、前面に芦ノ湖を控え、「天下の険」でした。しかし、箱根関所は「出女」だけしか調べませんでした。初め幕府が関所を管理していましたが、後に小田原藩に任されます。関所役人21人が、暮6つ(午前6時)から明6つ(午後6時)まで通行人を監視し、幕府の火急の飛脚以外は許しませんでした。そして、裏関所(脇関所)が、仙石原や根府川、矢倉沢、川村、矢ケ村の5か所に設けられていました。手形なしで関所を通過することは重罪で、上州国定村(現 群馬県伊勢崎市国定町)の長岡忠次郎(1810~1851)は、吾妻郡大戸村の大戸関所(現 群馬県東吾妻郡大戸)を破り、処刑されています。明治2年(1869)、関所は廃止され、自由に旅ができるようになりました。
そして、同3年、宿駅の本陣や脇本陣の制度が廃止されました。
三嶋大明神の主祭神は伊豆諸島の開拓神だとされ、噴火を畏れた人々に篤く信仰されていました。江戸時代、源頼朝が源氏再興を祈願した祈祷寺「心経寺」が支配していました。神仏分離後、「三島神社」と称し、戦後「三嶋神社」と改称します。時期になると、現在も樹齢千2百年といわれるキンモクセイが枝を広げ、馥郁とした香りを漂わせます。