「伊勢西国道中記」を読もう 2
日 時 : 6月18日(火)13:30~15:30
場 所 : 狭山元気プラザ第2教室
講 師 : 狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
今回は、厚木宿から畑宿までを読み進めます。
①【原 文】
相模川 土橋有
一厚木え 弐り
弐百四拾八文 山田屋源兵衛泊り
一田村え 弐り
此間八幡宮大社有
是より東海道え出
一平塚え 一り半
一大磯え 廿七丁
六拾四文昼喰
此宿道の方にとらこ石有
【書き下し文】
相模川、土橋有り。
一厚木へ 2里
248文 山田屋源兵衛泊り
一田村へ 2里
此の間八幡宮大社有り。是より東海道へ出る。
一平塚へ 1里半
一大磯へ 27丁
64文昼喰す。此の宿道の方に虎子石有り。
②【原 文】
一梅沢え 弐り
しんらん上人の墓有
此間川有土橋七拾間程
一小田原え 四り
御城下 大久保加賀守
御知行十一万三千石
弐百廿四文 小清水伊兵衛泊り
一畑え 三り
【書き下し文】
一梅沢へ 2里
親鸞上人の墓有り。此の間川有り、土橋70間程。
一小田原へ 4里
御城下 大久保加賀守 御知行11万3千石
224文 小清水伊兵衛泊り
一畑へ 3里
難 読 字
「此間」は「このあいだ」と読み、時間的に近いことを指します。「大磯」は異体字「礒」で、「とらこ石」は「虎御石」または「虎子石」と書きます。「梅」と桜は似ています。「しんらん」は親鸞で、「小清水屋」は書き間違えています。後ろ3行は、棒線を引いて、訂正しています(見せ消ち=みせけち)。
現代語訳
17日、相模川(馬入川)の土橋を渡り、厚木宿で山田屋(248文)に宿泊しました。田村宿で祈祷寺の観峰山八幡宮寺(本地仏は阿弥陀如来・祭神は応神天皇)を参拝し、これからの旅路の無事を祈りました。そして、東海道第7番目の平塚宿に入ります。
1里半ほど歩き、大磯宿で昼喰(64文)を摂り、日蓮宗延台寺(本尊は鬚題目)で虎御石を拝観します。間(あい)の宿・梅沢宿の浄土真宗本願寺派(西本願寺)龍頭山華水院善福寺(本尊は阿弥陀如来)で、親鸞(1173~1263)聖人の墓碑を参詣し、上人の宝物を拝観しました。暴れ川の酒匂川に架かる長さ70間の土橋を渡り、譜代大名・大久保加賀守(11万3千石)の城下町小田原宿に到着です。そして18日、小清水屋に宿泊(224文)しました。
解 説
大磯宿の日蓮宗宮経山延台寺(神奈川県大磯町)に日本三代仇討の一つ『曽我物語』のヒーロー曽我十郎祐成(1172~1193)の愛人・虎御前が化した岩がありました。美男でなくては持ち上げられないと言われる、周囲86㎝で重さ130㎏の巨石です。ところで、曽我兄弟が工藤祐経(1147~1193)を討った旧暦5月28日に降る「虎が雨」を、歌川広重(1797~1858)は浮世絵「東海道五拾三次 大磯 虎ヶ雨」に描いています。鎌倉時代、浄土真宗を開いた親鸞は、京都市の浄土真宗大谷派東本願寺の御廟と、かつて大谷御廟であった浄土宗知恩院の塔頭・崇泰院に納骨されています。また、真言宗である高野山奥の院に、親鸞の供養塔があります。
渡来系高麗人は大磯の唐ケ浜(もろこしがはま)に上陸し、後に武蔵国高麗郡(現 日高市)に移住しました。高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)は、高麗大権現(本地仏は千手観音・祭神は猿田彦命と高麗王若光)に祀られています。この寺は寺領百石で、寛永寺の天海僧正(1536?~1643)によって東昭宮が併せ祀られました。ちなみに、箱根神社(神奈川県箱根町)と伊豆山神社(静岡県熱海市)は、高麗大権現(現 高来神社=たかくじんじゃ)から分祀されたそうです。
江戸時代に使われた長さの単位は、1里=36町=約4km(3927m)で、1町は約109mです。宿場と宿場の距離は様々で、歩いて半日ほど掛かる16km以上離れる場所もあれば、2㎞ほどの場所もありました。宿場の間隔は平均して3~4kmほどしか離れていません。正規の宿駅の間に設けられた休憩用の宿を間(あい)の宿といいます。ここは、宿泊の施設を設けることは許されませんでした。そして、立場(たてば)は、人足が駕籠などを留めて休む場所で、旅人も休んだりしたので、茶屋などが設備されました。宿駅の外れに、境界を記した傍示杭が立てられていました。一里塚は、塚の上に榎や松などが植えられていました。高札場に幕府から出された命令がはり出されていましたが、寸法は決まっていました。