「覚-水野開発の記録-」を読む 5
日 時:2019年5月21日(火)13:30~15:30
場 所:狭山元気プラザ第2教室
講 師:狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
牛右衛門忠元によって書き残され「覚-水野開発の記録-」を、300年後の私たちは読んでいます。
① (書き下し)
御免に相成り候。/
一当村神社は村中氏神富士浅間宮、拙者/屋舗鎮守八幡宮此の両社の外御座なく候。此の/両社は御水帳に宮原と名所御座候。尤/差出帳にも前々度々書き上げ候事。/一拙者居屋敷添東此の所は先年/堀金村の高内にて、加佐志村善兵衛と申す者の/所持也。然る処に、延宝八甲申年拙者方へ/買い取り、則ち御年貢堀金村へ納め申し候。其の後元禄/五壬申年、当村御検地の節願い上げ奉り/
(現代語訳)
水野村の鎮守は富士浅間宮と八幡宮で、宮原(現 狭山市大字水野小字宮原)にあり、水野村差出帳にも書かれています。延宝8年(1680)、風下村の善兵衛から十か年季の質地証文で畑を質に取りました。ちなみに、明治5年(1872)の地租改正で、田畑が公式に売買できるようになりました。差出帳とは村明細帳(村鑑とも)で、現在の村政要覧のようなもの。村明細帳から当時の水野村の様子を窺い知ることができます。
② (書き下し)
候えば、右堀金村高を御抜き遊ばされ、当村村高へ/御入り下され候付、拙者屋敷一囲いに仕り候。則ち、当村/御水帳に堀金境と申す所にて、下畑五反五畝/歩也。右延宝年中買取り候節の証文或は/堀金村へ御年貢納め候請取書、今以て所持致し/候事。一当村初め寛文六年より同八年まで三か/年は御年貢御免に候。同九年初めて反別合わせ/百五十三町六反拾二歩の処、平均反に永拾三文/宛納め申し候。夫より年々少々宛増減之有り、上納
(現代語訳)
寛文6年(1666)から8年まで3か年間、年貢諸役が免除されました(鍬下年期)。同9年、反別は153町6反12歩で永が平均13歩になります。以来、石高の増減がありました。永とは年貢の計算基準です。江戸時代は石高制でした。水田は年貢を米で納めていましたが、畑作地は金納でした。
③ (書き下し)
仕り候。天和二年戌年高合せ参百弐拾六石八斗八升/三合と相成る。貞享四卯年四百弐拾八石八斗/八升と成り、元禄五申年御検地にて六百七拾九石/八斗五升の高辻に相極まり候。是より永御分米之有り/同七戌年御分米御定法下され候。今年御所替え/松平美濃守様御領知に成り、御割付に高百八拾八石/八斗弐升本途外四百九拾壱石三升新田と/御書訳下され候処、宝永二酉年細田伊左衛門様/御代官所に成り、御割付に高六百七拾九石八斗/五升と成られ、是より新古高相分り申さず候。/
(現代語訳)
天和2年(1616)に石高が326石8斗7升3合になり、貞享4年(1687)に426石8斗8升8合に、元禄5年(1692)に679石8斗5升になります。同7年、松平美濃守(柳沢吉保)の時、本途物成が188石8斗2升になり、その他に491石3升が加わります。宝永2年(1705)細田伊左衛門の代官領になった時、石高は679石8斗5升となりました。
(解説)
5年間で102石7合増石し、10年間で352石9斗7合増え、10年間でおよそ2倍になったことになります。最初の10年間、年ごとに石高が変わる毛見取りで、生産が安定すると石高を平均した定免法になりました。
その結果、年貢の剰余部分ができると、幕末には伊勢や西国三十三か所、出羽三山などを旅する農民も出ました。『伊勢西国道中記』や『出羽三山道中記』『坂東三十三ケ所巡礼記』などの旅行記が残されています。今までの説に従うと、江戸時代の農民は虐げられていませんでした。