入間川の歴史と自然価値―観光資源として見る入間川
講師 : 元狭山市博物館館長 髙橋光昭
日時 : 2019年5月8日(水)13:30~15:45
場所 : 狭山元気プラザ大会議室
狭山市には入間川という地名があり、西武新宿線狭山市駅の旧称も「入間川駅」だったことはご存知の通りです。今回の講座では、入間川についてのお話と、周辺の遺跡、この地にゆかりのある武将等についてのお話を伺いました。
入間川の流れ
入間川は荒川水系の一級河川で、荒川の支流としては最長です。上流部は名栗川(なぐりがわ)とも呼ばれ、秩父市と飯能市上名栗の境にある大持山(標高1294 m)の南東斜面に源流があります。狭山市を流れている部分に急流のイメージはありませんが、源流部分の標高は1197m、荒川との合流地点の標高は約7m、全長67.4kmの間に実に1190mを下る急流です。旧名栗村から飯能市、入間市を流れ、青梅の山や丘陵から流れ出る水を集める成木川、東京都多摩地域から入間市を流れる霞川などの支流を合わせ、狭山市内で北東に流れを変えます。川越市内で南東方向に流れを変え、川島町と川越市の境付近で坂戸方面や黒山三滝から来る越辺川とも合流し、川越市古谷本郷で荒川に合流します。
江戸時代の入間川は、名栗村から材木として伐り出された木材を筏に組み、江戸まで川下げする流路になっていました。その木材は、江戸の西を流れる川から運んだという意味で、「西川材」と呼ばれていました。
移動する入間川
荒川は寛永6(1629)年、幕府の瀬替え工事により現在の流路になりました。それ以前は古谷本郷の合流地点から東京湾に至るまでをも入間川と称していました。また、工事以前の荒川の流れは現在の元荒川として残り、古利根川とともに埼玉県東部地域を流れていました。日本相撲協会の年寄名跡のひとつに「入間川」があり、入間川部屋などもありますが、何か関係しているのかも知れません。
現在の入間川は狭山市を2分する形で、市内の中心よりやや北を流れています。市を2つに分ける大きな流れです。暴れ川と言われた入間川の流れは、時代と共に大きく変化してきました。元禄3(1690)年作成の地図によると、入間川は現在とほぼ同じ場所と、つつじ野団地から広瀬東にかけての2つに分流していました。現在の狭山市立西中学校から埼玉県立狭山緑陽高校の辺りを通り、柏原の先で合流しています。中州部分は「字中島」として現存しています。西中学校近くのバス停は「河原宿」といいます。まさに河原だった名残りです。
入間川流域に分布する遺跡、街道と武将たち、近現代の狭山
入間川に沿った河岸段丘には、古代からの人々の生活痕跡がたくさん残っています。旧石器時代の西久保遺跡、縄文時代の宮地遺跡を始めとして、奈良平安時代の七曲井や堀兼之井まで、各年代のたくさんの遺跡があります。
また、狭山市を通る街道には、東山道武蔵路、入間道、鎌倉街道があります。それらの歴史とともに、清水冠者義高、新田義貞、足利基氏、小田原北条氏と上杉氏、徳川家光と下奥富の廣福寺、松平信綱の新田開発、豪商綿貫家、川越藩農兵取り立て反対一揆、市域の近代化に尽力した清水宗徳、最初に製茶機械を導入した志村久松、「乳牛の使途」と称された塩野谷平蔵等々、狭山にゆかりの深い人々のお話もしていただきました。
狂言『入間川』とまつり
15世紀に誕生したとされる狂言『入間川』は、物事を逆に表現するおかしさを題材としたものです。大名が入間川の渡り瀬はもっと上(かみ)だと教えられますが、この地に伝わる逆言葉(さかことば)を使ったものとひとり合点してそこを渡り始め、深みにはまってずぶぬれになります。怒った大名は男を討とうと刀に手をかけますが、機転をきかせた男が逆言葉を使って応答するので、理屈に詰まって命を助けます。最後には、逆言葉の理屈を無理にこじつけて男をだまし、品物を取り返して逃げるという狂言です。
大変有名な『入間川七夕祭り』は、大正時代に買い物客に縁台を設け、飲み物を提供したのが始まりと言われています。昭和25年に、ある商店主が竹飾りに木馬をぶら下げたのを契機に多くの商店が飾り物に工夫を凝らすようになったそうです。新しい環境保全型の祭り「灯の川」も紹介いただきました。
講座の時間を過ぎても質問の時間をとっていただき、受講生からは「初めて聞く」「奥が深い講座だ」と感嘆の声が……。観光資源としての入間川の様々な価値について、改めて考えさせられた2時間でした。