西郷隆盛 ~ 死に場所を求め続けた悲運の後半生 ~
講 師 : 日本ペンクラブ 理事 岳 真也
実施日 : 平成30年9月19日(水)1:30~3:30
場 所 : 狭山元気プラザ 大会議室
出席者 : 受講生 55名(受講生数62名)
西郷は龍馬を見殺しにしたのか
「日本史で一番面白いのは戦国と幕末だ」「歴史の続きに現代日本の社会がある」……。どちらも岳先生のお言葉です。すると、逆転日本史講座の9月からの講義は、日本史の中でもっとも面白く、もっとも現代日本に影響を及ぼしている、興味深い部分ということになるのでしょうか。
幕末の人物の中でもトップクラスの人気を誇るのが西郷隆盛。先生行きつけの高田馬場の薩摩料理店『薩摩の里』の御主人は、江戸幕府支持(佐幕)で薩長が苦手という岳先生に、「薩摩についても、鹿児島についてもどんな悪口を言っても良い。大久保利通も悪く言っても良い。しかし、西郷の悪口だけは言うな」と言ったそうです。先生は、「それでも龍馬殺しの黒幕説は拭えない」と続けます。「西郷は龍馬を見殺しにしたのではないか」、と……。今日はそんな西郷隆盛の話です。
不遇な幕末時代と新政府での活躍、そして挫折
1828年、西郷は薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれました。下から2番目の御小姓組とはいえ、歴とした武士の家柄です。当時、武士は生活が相当苦しくなっていましたが、西郷自身はさほど貧しくない幼少年時代を過ごします。けんかで肩を斬られ、剣が使えなくなってしまいましたが、相撲はめっぽう強かったそうです。先生は、「時はまさに大砲や銃の時代、剣を使えないことで陣頭指揮する側に回り、かえって良かったのではないか」と言います。
西郷は18歳で郡方書役助になり、28歳で藩主・島津斉彬から中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴きました。その後、「御庭方役(=今でいうスパイ)」となり、海外情勢に合わせた政策を取るべきだと考えていた斉彬から、直接教えを受けます。そんな中で、水戸藩の藤田東湖や福井藩の橋本左内と盟友となり、ともに一橋慶喜を将軍にすべく活動します。左内は「安政の大獄」で処刑されますが、西郷は終生、彼の手紙を懐に入れていたといいます。斉彬の死後、公武合体を推進した島津久光が藩主の父(国父)として権力を握ります。幕府から追われ、久光とも馬が合わなかった西郷は、僧・月照と共に錦江湾に入水しますが、一人生き残り、奄美大島や徳之島、沖永良部島に島流しになります。
しかし、時代は西郷の登場を待っていました。王政復古の大号令が発令されると、総督府の参謀になります(ちなみに、隆盛が錦の御旗を発案したそうです)。1868年、勝海舟と談判し、江戸を無血開城します。そして、維新を迎えると参議や陸軍大将になり、廃藩置県や徴兵令、学制、太陽暦の採用など次々と難題を解決しました。岩倉具視や大久保利通などの岩倉使節団が欧米に出発すると、留守を預かります。西郷は対朝鮮問題に対して、「遣韓大使論」を提案し、閣議決定しました。しかし、帰国した大久保たちは、「国内の改革が先だ」と主張、政府は分裂しました。西郷は参議と陸軍大将を辞し、鹿児島に帰省。私学校をつくって士族の子弟の教育に専念しました。
そのころ、旧来の特権を失った不平士族が、各地で反乱を起こしていました。1877年、西郷も私学校の生徒に促され、「政府への尋問これあり」と鹿児島を出発します。しかし、熊本城を攻め落とせず、田原坂の激戦で敗れ、鹿児島に戻って自決。51歳の生涯を終えました。福沢諭吉と西郷隆盛は私的な付き合いはありませんが、諭吉は西郷を「維新で一番の英傑」と高く評価し、西郷は諭吉の書に感動し「右に出る者なし」と賞賛しています。諭吉は「西郷の訴えに耳を貸せ」と休戦の建白書を出しますが、間に合いませんでした。その後、木戸孝允は病没し、大久保利通が暗殺されます。東京の市民たちは、西郷星の呪いだと噂したそうです。こうして、維新の三傑は消え去り、一つの時代は終わりました。
「征韓論」は、朝鮮側の使者が「西洋の猿真似」と日本批判したことから始まりました。しかし、西郷は中国と朝鮮と組んで西洋列強に対抗するという思惑があったと思われます。最近の韓国近代史の中では、西郷の存在が見直されています。歴史に「もし」はありませんが、もし遣韓が行われ、西郷と韓国政府が話し合いをしていたら、日韓関係は今とは違うものになっていたに違いありません。士族の不満を一身に背負い、その解消策を考えた西郷。しかし彼は、先に逝った者たちへの追慕から、「死に場所」を求め続けていたのかもしれません。
質問タイム
「小御所会議や篤姫は江戸城無血開城に関係があったのでしょうか」との質問が出されました。先生からは「両方ともあまり根拠のある話ではないので、本当の所は西郷隆盛に聞いてみないと分かりません。篤姫についてはほとんど文献が無く、良く分かっていません。勝海舟や山岡鉄舟などの方がきちんと文献があり、西郷と連絡を取っていたことが分かっています。」とのお答えがありました。
受講生の感想
受講生からは、「征韓論の項で、西郷が中国や朝鮮と組んで西洋と対抗しようとしたところに興味を持ちました」「田原坂は私の故郷で、学校の遠足で何度か行く事があり、懐かしく、興味がありました」との感想が寄せられました。
(文:スタッフ権田・高橋 )