明治維新 近藤勇・土方歳三の子孫と交流
実施日 : 平成30年9月26日(水)8:20~17:00
場 所 : 土方歳三資料館 石田寺 龍源寺 近藤勇生家跡
出席者 : 受講生31名(受講生数62名) スタッフ等8名 計39名
狭山市駅から万願寺駅へ
9月にしては寒い朝。それでも、元気な挨拶で続々集まって来る逆転日本史の受講生。出席確認をして多摩都市モノレール線の万願寺駅に向かいます。多摩モノレールは、南北方向の交通手段の整備が望まれていた多摩地域を縦断する、全長16キロの路線です。「初めてモノレールに乗った」という受講生もいました。住宅地の中をゆっくり走るモノレールからの眺めは、眼下の街並み、遠景の多摩丘陵と、見晴らしが良く新鮮でした。ほとんどが高架駅で、万願寺も高い所に駅があります。ドアは自動で開きますが、閉める時は運転手さんが目視で安全を確認し、自身の手でボタンを押して閉めていました。
土方歳三資料館
土方歳三には妻はいませんでしたが、土方歳三の兄・土方喜六という方の子孫が残っておられます。土方歳三資料館の館長、土方愛さんです。平成2年に区画整理で旧家屋が建て替えられたので、愛さんが歳三の暮らした生家で育った最後の世代だそうです。生家の大黒柱や長者柱を資料館正面の梁や柱に活かしています。館内には歳三の書状や武具等が展示されています。本物を見ることで、歳三の生きた時代を肌で感じることができました。途中で、近藤勇の子孫の原田さんもいらっしゃり、額に入った「天然理心流 目録」を見せていただきました。
資料館の庭には歳三の銅像があり、幼い頃「われ壮年武人となって名を天下に上げん」と植えた矢竹(矢に用いる竹)が今も繁殖しています。
石田寺と土方歳三の墓
土方歳三資料館から歩いて十分ほどで、歳三の墓所のある石田寺に着きます。カヤの大木の下には、「土方歳三義豊之碑」が立てられています。これは、歳三の兄、喜六の曽孫にあたる土方康氏が昭和43年(1968)に明治100年を記念して建立したものです。少し先に進むと右手に歳三の墓所があります。お彼岸の後か、たくさんの花に囲まれていました。近くには土方姓のお墓がたくさんありました。そういえば、資料館から石田寺までの間にもたくさんの土方姓の表札がありました。調べると、資料館の日記に答えがありました。日野の『土方』という苗字は、後北条氏に仕えた武士集団にルーツがあり、石田村は全戸(といっても十四、五軒だそうです)が土方姓でした。ですから、その時代からある家々やその分家はすべて『土方』姓だということです。
龍源寺と近藤勇の墓
万願寺から三鷹に戻り、バスで龍源寺へ。龍源寺の門前には近藤勇の銅像がありました。境内を歩き、近藤家の墓所へと進みます。ここでは、近藤勇の子孫、原田日出男さんに一言頂いて、一緒にお墓参りをしました。先生から、近藤勇の甥や長兄ら7人で、板橋に埋められた近藤勇の首のない遺体を掘り起こし、龍源寺に埋葬した話、京の三条河原に晒された首にまつわる話などを伺いました。近藤の首は誰が持ち去り、どこに行ってしまったのか……。今でも謎だそうです。
近藤勇生家跡と近藤道場撥雲館
近藤勇生家跡には勇が生まれた時の産湯に使ったと伝えられる井戸が残されているだけで、当時の面影をうかがい知ることはできません。井戸に隣接して、近藤神社がありました。また、人見街道を挟んだ所には、天然理心流道場『撥雲(はつうん)館』がありました。ここは近藤勇の養子勇五郎が生家の向かいに開いた道場です。撥雲とは暗雲を取り除くという意味で、山岡鉄舟が訪れた際に命名したといいます。思ったより小さな道場ですが、その古い佇まいは近在の子弟たちが通い、熱心に稽古していた当時の様子に思いを馳せるには十分でした。