「伊勢西国道中記」を読もう 1
日 時 : 6月11日(火)13:30~15:30
場 所 : 狭山元気プラザ第2教室
講 師 : 狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
『伊勢西国道中記』を読み進めたいと思います。
表紙
「伊勢西国道中記 安政三丙辰年十二月吉日」
①【原 文】※カタカナは平仮名に直す
安政三丙辰年
十二月十五日出立
目出度始め宿より
一箱根ヶ崎より 三里
二百廿四文 田中屋雲左衛門泊り
亦百文昼喰
一拝島より 弐里
此間河有廿四文 舟賃玉川也
【書き下し文】※数字は算用数字に改める
安政3丙辰年(1856)
12月15日出立。
目出たき初め、宿より。
一箱根ヶ崎より 3里
224文 田中屋雲左衛門泊り
亦100文昼喰す。
一拝島より 2里
此の間河有り。24文舟賃 玉川(多摩川)なり。
②【原 文】
一八王子え 弐里
弐百廿四文 亀屋新右衛門泊り
六人にて弐百文茶代
此間 杉山峠 武州相州境
一橋本え 弐り
百文昼喰 柏屋惣吉
此間川有 舟渡し廿四文
【書き下し文】
一八王子より 2里
224文 亀屋新右衛門泊り
6人にて200文茶代
此の間、杉山峠 武州相州境
一橋本へ 2里
100文昼喰す。 柏谷惣吉
此の間川有り。舟渡し24文
難 読 字
「昼喰」は国字で、「ひるじき」と読みます。「拝嶋」の拝と「亀屋」の亀、「武州」の州は難読字で、泊と柏の旁(つくり)の崩し方を覚えます。
現代語訳
安政3年(1856)12月15日、一行は水野村を出発しました。1泊目は、忘れ物を取りに戻れる箱根ヶ崎宿の田中屋(224文)で宿泊します。拝島で玉川(現 多摩川)を24文で渡ります。
そして、16日、八王子宿の旅籠・亀屋新右衛門(224文)に2泊目を迎えました。茶屋(6人で200文)で一休みし、武蔵(現 埼玉県・東京都・神奈川県の一部)と相模(現 神奈川県)の国境・杉山峠を越えます。橋本宿に到着し、柏屋で昼食(100文)を摂った後、渡し船(24文)で境川を渡りました。
解 説
本書は武蔵国入間郡水野村(現 狭山市水野)の平百姓・志村源右衛門が旅籠代や茶屋の昼食代、茶代、川の渡し賃、参詣した寺社の様子などを書き留めた旅日記です。当時、在地を離れ自由に旅することは禁止されていました(逃散になる)が、寺社の参拝と湯治だけは許可されていました。旦那寺から往来手形(身分証明書)を、名主から関所手形を発行してもらいます。往来手形には「旅で倒れた場合、その場に埋葬し、在所に連絡しなくてもよい」と書かれています。各藩の入口には、番所が設けられ、往来手形を見せなければなりません。
ペリー提督(1794~1858)が浦賀に来航し、日米和親条約を結ぶなど世間が騒々しい時期です。そんな師走15日、伊勢講の一行30人は、水野村を出立しました。大事なパスポート(往来手形)や矢立、道中合羽、印籠、煙草入れなどの身支度をし、墓参りを済ませ、家族と水盃を汲み交わしました。そして、水で濡らして履きやすくした草鞋を履き、家族に見送られ日の出と共(七つ立ち)に旅立ちました。
ところで、当時の旅人は、徒歩で歩くことが一般的で、早朝から日暮れまで1日に約10里も歩きました。江戸を中心に五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中)が整備され、道中が安全になったとは言え、旅は困難を伴います。情報が満載されたガイドブックを手本にしながら、源右衛門は道中記を書き続けています。
最初の宿泊地・田中屋では旅籠代224文を、天保通宝2枚(寛永通宝200枚分)と寛永通宝6枚(裏面が波型の寛永通宝は4文の価値)で支払っていますが、伊勢講が指定した平旅籠だと思われます。当時、旅籠は1泊2食で、夕食は御飯を主に一汁二菜でした。歩きでの旅なので、朝食は力の出る物が提供されました。