「覚 ―水野開発の記録-」を読む 6
日 時 : 2019年 6月 4日(火)13:30~15:30
場 所 : 狭山元気プラザ第2教室
講 師 : 狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
とうとう最後まで「覚-水野開発の記録-」を読み通すことができました。本文書は如何でしょうか。
① (書き下し)
一当村は寛文六午年より元禄六年まで二十八/か年松平伊豆守様御領知、元禄七戌年より/宝永元年迄十一年松平美濃守様、宝永/二酉年より同三年まで壱年、御料御代官/細田伊左衛門様御支配、正徳二辰年より/当秋元但馬守様御領知に相成り候。/
一右御料所七年の内、宝永四亥年五月当村より/六人頭取仕り村中を誘い候て、拙者私欲之有る由/江川太郎左衛門様御役所へ御訴訟申し上げ候に付、拙者/御吟味御座候処、諸帳面等を以て委細申上げ候えば、右六人の者共誤り至極候に付、急度御咎め仰せ付けられ/
(現代語訳)
本文は、実際とかけ離れた記述になっています。寛永16年(1639)から寛文2年(1662)まで23年間は松平伊豆守信綱が、寛文2年から同11年(1671)まで9年間は甲斐守輝綱が、同12年から元禄7年(1693)まで21年間は伊豆守信輝が、元禄7年(1694)から宝永元年(1704)まで9年間は松平美濃守(柳沢吉保)が、宝永2年から3年までは代官の細田伊左衛門が、宝永4年(1707)から正徳元年(1711)まで5年間は韮山代官の江川太郎左衛門が、正徳2年(1712)から明和4年(1767)まで55年間は秋元但馬守家が支配しました。そして、明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで99年間は松平家(大和守家)・慶応2年から明治2年(1869)まで3年間は松平家(松井松平家)が支配しました。宝永4年(1707)5月、水野村内の農民6人が中心になって、牛右衛門忠元の不正を韮山代官(現 伊豆の国市)の江川太郎左衛門に訴えました。
② (書き下し)
候処、御慈悲を以て六人の者共手鎖仰せ付けられ/其の上御役所様へ誤り証文差し上げ奉り候。/拙者方へも六人並びに村中残らず連判を以て誤り証文/之を出し、相済まし申し候。此の節江川太郎左衛門様より当村/立初め以来拙者相勤め候訳、御尋ねに付有体申し上げ/候処、委細書き上げ差し上げ候様に仰せ付けられ、則ち紙面/相認め、御手代御割元荒井五郎兵衛殿へ差し上げ申し候。/
③ (書き下し)
右の通り、宝永四年五月江川太郎左衛門様/御役所へ委細書付差し上げ申し候。拙者正保四丁亥年/の生れにて、当享保二酉年積年七十一歳に/罷り成り、老衰仕り露命今日も知らず、之に依り子孫/後覧の為、書き置き申す所件の如し。/于時享保二酉年正月吉日 牛久保牛右衛門忠元(押印) 積年七十一歳
(現代語訳)
頭取6人は手鎖(てじょう)を受け、連判状の詫び証文を差し出しました。委細は割元の新井五郎兵衛に報告し、宝永4年(1707)5月、韮山の江川代官所に委しい書付を差し出しました。享保2年(1717)正月、71歳になった牛右衛門は子孫に由緒書「覚」を書き残し、3年後に亡くなりました。牛右衛門は通称で、実名(諱=いみな)を忠元と言います。
(解説)
入植した農民は、川越藩の力により深い竪井戸(お助け井戸)を掘ってもらい、飲み水などの生活用水を得ることができました。井戸の断面が崩れるのを防ぐため赤松で井桁を組み、井戸枠を作りました。現在は、あまり使われませんが、地震などで使えなくなった時のために今でも大切にされています。 水野開村の約30年後、下水野の18軒の農民は南入曽村の「こかわ(小川)」即ち「入曽上水」から分水してもらい、とても助かりました。
畑は細長い短冊形で真ん中に野良道(耕作道)を作り、畑境にウツギや茶の木を植えました。それから、一番奥にクヌギやコナラなどの落葉樹や赤松を植え、落ち葉と下草は有機肥料に、枝は燃料に利用しました。そして、屋敷の周りにシラカシやケヤキ、タケなどを植えて、北風の空っ風を防ぐ防風林としました。
開拓20年後の貞享3年(1686)、名主の牛久保牛右衛門忠元ほか名の尽力により地蔵菩薩が立てられました。また、村内に庚申塔や馬頭観音、廻国供養 塔などが立てられるようになります。そして現在、水野の篤農家は野菜作りなどで、手広く農業経営を営んでいます。今回、『覚-水野開発の記録-』を通し、水野村の新田開発の一端を窺い知ることができました。これ以降、武蔵野の開発は東方に向かい、元禄7年(1694)の柳沢吉保(1658~1714)の三富(上富村・中富村・下富村)の開拓に発展します。日本農業遺産指定の三富「武蔵野の落ち葉堆肥農法」は広く知られますが、その28年以前、水野村の新田開発が行われていたことを後世に残したいものです。
※ 竪掘り井戸作りと防風林と屋敷、1軒分の地割図は、平成29年度版『わたしたちのまち さやま』から転載しました。写真は池田守氏、カットは木村麦氏の提供です。狭山市教育委員会を初め、皆さんに深く感謝いたします。