「覚 -水野開発の記録-」を読む 4
日 時 : 2019年5月14日(火)13:30~15:30
場 所 : 狭山元気プラザ第2教室
講 師 : 狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
読みづらいと思われた古文書にも馴染んで来たと思います。堀兼地区の鎮守社・堀兼神社になった富士浅間宮(本地仏は阿弥陀如来、祭神はコノハナサクヤヒメノミコト)について読み進めます。
① (書き下し)
一右御検使相済し、御評定所に於いて御裁許/成し下され、則ち御絵図下し置かれ候。御裏書に委細/御座候。御絵図拝見仕る様別紙に覚書仕り置き候。今年貞享二丑年川越/御殿様より御合力として金子七両拙者へ下し置かれ候。是より/巳年迄五ヶ年の間七両宛年々下し置かれ候。/右野論に付、両年江戸往来仕り候処、江戸表/飯料の儀は初め終り共に御上屋敷様御賄い成し下され/候。之に依り村方に於いて其の節困窮薄く御座候。/
一堀金村の鎮守氏神は則ち謂これ有り、富士浅間宮/勧請仕り候て、拙者父金左衛門別当同所に支配仕り/
(現代語訳)
幕府の評定所から裁判の裁定を受け、証拠として裏書した絵図を頂戴しました。貞享2年(1685)、川越藩主の松平信輝公から金子7両を拝領し、それから5年間、7両ずつ拝領しています。また、川越藩の江戸上屋敷に出掛けた折、牛右衛門たちは食事の賄いを受けるなど、物心両面にわたり援助を受けました。堀金村の鎮守社由緒ある富士浅間宮(祭神は木咲耶姫命で本地仏は阿弥陀如来)です。
② (書き下し)
罷り在り候処、百姓方より申し候は、村中の氏神を/在家の支配に成り難く候間、寺社の鍵取りに仕り/たき由申す。拙者の父は末子の彦兵衛を/修験に仕り、末々別当に仕るべき由申す。埒明申さず候て/既に異論に及び候処、川越御了簡には名主百姓共の/願いに罷り成らず、堀金富士浅間は各別の謂れ之有る間/自今以後、別当は御城内の高松院へ/仰せ付かる旨仰せ渡し、是より堀金浅間別当の儀は/川越高松院罷り成り候事。/
一堀金村名主太郎兵衛は拙者金左衛門遺跡にて/
(現代語訳)
「富士浅間宮は堀金村の鎮守で、末弟の彦兵衛を別当にする予定でした。川越城内にある天台宗本山派三芳山高松院広福寺の別当が浅間宮を管理することになりました」と記しています。
(解説)
ところが、富士浅間宮は堀金村が開発される以前の慶安3年(1650)、川越藩の町奉行・長谷川源右衛門が野火止塚に富士浅間宮を鎮座したとされます(狭山市指定文化財の棟札)。堀金浅間宮は川越城内にあった高松院の末寺・井上山心静院浅間宮寺で、別当は慈雲庵に暮らしていました。別当寺の社僧は、農民に祈祷や漢方の処方などを通して役割を果たしていました。