「覚 -水野開発の記録-」を読む 3
日 時 : 2019年5月7日(火)13:30~15:30
場 所 : 狭山元気プラザ第2教室
講 師 : 狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
草書でグニャグニャと書かれた崩し字にもだいぶ慣れて来ましたか。今回は、2回にわたり行われた入会地論争について読み進めましょう。
① (書き下し)
之有るに於いては川越へ相願い候えど、仰せ聞かれ候に付、又候/右三拾壱か村の者共川越役所へ願い上げ候え共/水野新田は元来川越領野高弐百石の内に/之有り候故、川越より新田御取り立てに候処、山口領の/者共理不尽の願いに之有り、御取上げ御座なく候に付/村々願人共相退き候事。/
一其れ以後も年々当村より開発萱野立出し/仕り候に付、北入曽村・黒須村・田中村・三ツ木村・加佐志村/此の五ケ村の者共秣場に難儀仕り候由にと、拙者を/相手取り、貞享元甲子年(当丁酉年迄三十七年に成る)/
(現代語訳)
南山口領31か村の農民は、水野村を川越役所(江戸の上屋敷)に訴え出ました。しかし、「水野の地は元来、川越藩の野高200石の原野で、山口領の農民の訴えは理不尽である」と言い逃れ、却下されました。そして17年後の貞享元年(1684)、今度は5か村(北入曽村・黒須村・田中村・三ツ木村・加佐志村)の農民が水野村を訴えました。しかし、川越城主・松平輝綱公が幕府の要職に就いていた関係で、またもや訴えは退けられました。
② (書き下し)
御公儀様へ訴状を以て願い上げ奉り候に付、御裏判/下され、拙者返答書相認め、諍論に及び、同二乙丑年/二月七日、御検使として柘植伝兵衛様御手代/木村甚左衛門殿・天羽七右衛門様御手代内藤次郎助殿/此の両人お越し、論所御見分成され候。其の節/拙者屋舗の鎮守八幡宮・稲荷宮両社勧請/仕り置き候を御検使は御覧成られ、拙者に尋ね/成られ候。之によりお答え申し候は、拙者屋舗の/鎮守八幡・稲荷の禿倉に御座候えば、扨ては/稲荷八幡動かぬ水野かな、と御称美成し下され候。
(現代語訳)
貞享2年(1685)2月7日、郡奉行・柘植伝兵衛の手代・木村甚左衛門と天羽七右衛門の手代・内藤次郎助の2人が検使として、水野村に派遣されました。手代が水野村を委しく見分すると、「寛文6年(1666)造立の八幡宮と、稲荷宮(牛久保家の屋敷神)が動かぬ証拠である」と認定し、水野村は訴訟に勝つことができました。
(解説)
・裏判とは、証明書の裏に書かれた文書で、花押が署名されている。
・八幡宮の祭神は応神天皇で、本地仏は阿弥陀如来である(日蓮宗では釈迦如来)。
・諍論は「じょうろん」と読み、諍(いさか)い=争いのこと。