「覚 -水野開発の記録-」を読む 2
日 時 : 2019年4月23日(火)13:30~15:30
場 所 : 狭山元気プラザ第2教室
講 師 : 狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
引き続き「覚」を読んでいきます。多少なりとも古文書に興味を持てましたか。本書は水野村の牛久保家2代目・牛右衛門忠元が、享保2年(1717)正月吉日、子孫に書き残した文書です。江戸時代の公式書体の御家流で書かれているので、本文は読みやすいと思います。それでは、具体的に読みを深めましょう。
① (書き下し)
浅間社におゐて松平輝綱公お休み遊ばされ、此の辺りに新田村/取り立べく旨仰せ付けられ、則ち上意に任せ、寛文六丙午年/(当地丁酉年迄五十二年に成る)当村を取り立て申し候て、父の金左衛門は拙者を召連れ/当村へ罷り出申し候。拙者儀、正保四丁亥年出生にて/今年二十歳の時也。当村号の儀 俊成卿古歌に/むさし野に堀金の井もあるものを 嬉しく水の近付きにけり此の古歌をなぞらえ其時の郡奉行安松/金右衛門尉吉政と申す御仁、水野村と御付け成され候/
(現代語訳)
寛文6年(1666)、松平甲斐守輝綱公は武蔵野に鷹狩に来た時、堀金村の富士浅間宮(現 堀兼神社)から茫漠とした原野を見て、ここを開発しようと考えました。そして、金左衛門に水野の地を開発するよう命じました。牛右衛門忠元が20歳の時です。その時、川越藩の郡奉行・安松金右衛門吉政が、藤原俊成(1114~1204)が『千載和歌集』で詠んだ和歌「武蔵野に 堀金の井も あるものを 嬉しく水の 近付きけり」から水野村と名付けました。
② (書き下し)
一当村を取り立て候事近辺へ相聞え、多分は入曽/村の者相願い、開発屋敷割を申請候えど、家建て候事成り難き者多く之有り。又家作仕り候ても新田場の/住居募り難く候故、大方屋敷を売り払い申し候。夫より/所々へ買取候て、家作仕り百姓相勤め罷り在り候。
一水野村を取り立て候に付、秣場狭まり難儀仕り候由にて/南山口領三拾壱か村より、寛文六午年七月廿五日/御公儀様へ訴状を以て願い上げ奉り候えば/分を聞こ召せられ、山口領三拾壱か村の者共願いたき儀
(現代語訳)
多くは南入曽村の百姓が開発に従事しましたが、開拓生活は困難で屋敷を売り払い、出奔する者も出ました。寛文6年(1667)7月25日、南山口領31か村の農民たちが、秣場(まぐさば)が狭まるとこれから困ると公儀(勘定奉行)に訴えました。
それまで茅や萱が繁茂する原野は、明暦年間(1655~1657)まで開発されず、周辺村々の入会地として使われ、武蔵野は村々の野銭場であり、境界がはっきりしていませんでした。ちなみに、秣場とは茅や萱を採集し一定地域の農民が共同利用する場所で、秣は刈敷として田や畑の有機肥料に利用されていました。入曽村は既に南・北入曽村に分村しているので、南入曽村のことです。新義真言宗豊山派御嶽山金剛院延命寺が検地役人の宿舎になった関係で、今でも金剛院は水野に土地を所有しています。