「覚 -水野開発の記録-」を読む 1
日 時 : 2019年4月16日(火)13:30~15:30
場 所 : 狭山元気プラザ第2教室
講 師 : 狭山市文化財保護審議会委員 権田 恒夫
『覚 -水野開発の記録-』は狭山市水野の牛窪家が所蔵する文書で、代々、同家の仏壇に大切に保存されて来ました。それでは、今日から皆さんと一緒に本文を読んで、今から350年ほど前の武州入間郡水野村(現 狭山市大字水野)の新田開発の経緯を学びたいと思います。
① (書き下し)
一拙者旧祖牛久保は、三州牛久保と申す処の/出生にて浪々仕り、当国足立郡桶川町へ罷り越し/牛久保馬之丞(拙者高祖父也)と号し、彼の所に居住/仕り候処、藤倉大膳と申す者、慶長十一丙午年/酒井備後守様の時(当丁酉迄百十一年に成る)大塚村を取り立て申し候。然るに大膳は/馬之丞と相互に懇ろの挨拶故、馬之丞の嫡子/牛久保新兵衛(拙者曽祖父也)大塚村え参り、大膳/
(現代語訳)
「私の高祖父・馬之丞は、三河国牛久保村(現 愛知県豊川市牛久保町)の出生です。どんな理由か分かりませんが、各地を浪々した後、武蔵国足立郡桶川村(現 埼玉県桶川市)に移り住みました。そして慶長11年(1606)、藤倉大膳と仲良くなった馬之丞は大塚村を開発して、嫡子の新兵衛も一緒に移り住みました」と、牛久保牛右衛門忠元は書いています。しかし、牛久保家の由来は脚色されていると思います。
② (書き下し)
世話に罷り成り、居申し候て、新兵衛嫡子牛久保次郎右衛門/(拙者三従伯父也)。慶長癸丑十八年(酒井讃岐守様の時当丁酉迄百四年に成る)大塚新田を/取り立て、則ち名主役相勤め罷り在り。次郎右衛門嫡子牛/久保佐右衛門(拙者従弟也)承応壬辰元年(酒井讃岐守様の時当丁酉年迄六十九年に成る)/今福村を取り立て、則ち名主相勤め罷り在り。又同二癸巳年/佐右衛門堀金村を取り立て、甥の牛久保金左衛門え/相渡し申し候。金左衛門は大塚新田より堀金村へ罷り出/名主仕り候処、寛文五乙巳年川越城主/松平甲斐守輝綱卿武蔵野え鷹野にお出の/節先案内人は拙者父金左衛門仰せ蒙り候砌、堀金村/
(現代語訳)
慶長18年(1613)、次郎右衛門(三従伯父)は名主として大塚村を取り立てました。承応元年(1652)、佐右衛門(従弟)が今福村の名主になり、翌年、金左衛門が堀金村の名主を勤めます。寛文5年(1665)、川越城主の松平甲斐守輝綱公(1620~1672)が堀金村(現 堀兼)に鷹狩に来た時、金左衛門が野先案内人を勤めました」と記しています。
しかし、他家の文書には、「承応年間(1652~1654)、川越藩は志村次郎兵衛を割元に指名し、9か村の引受人を決め、今福村は上奥富村の志村次郎兵衛と大塚村の佐右衛門が、中福村は萩原八左衛門が、上松原村は鈴木安兵衛が、下松原村は木下伝兵衛が、上赤坂村は三島伊左衛門が、中新田村は尾崎三左衛門が、そして堀金村は宮沢兵右衛門が開拓した」と書かれています。ところで、鷹狩とはオオタカ(青鷹)などの鳥を使って、鳥類やほ乳類を捕らえる遊びです。水野村は川越藩領です。寛永10年(1633)、狭山市内では上赤坂村と堀金村(現 堀兼)と共に、徳川御三家の一つ尾張家の御鷹場に含まれ、川越藩と尾張家に二重支配されました。
水野の平地林(池田守氏提供) |
「覚」(狭山市水野の牛窪家所蔵) |