第3回 生業の体験を聞く・学ぶ “その2:堀兼の畑・ヤマ仕事”
写真 提供 : 聴講生 佐藤 芳子
編集・文責 : 聴講生 鈴木 房子
11月14日(金)狭山元気プラザにおいて「さやまの生活文化伝承講座」の第3回目の講座が開かれました。今回のカリキュラムは堀兼地区の新田の開発の歴史や生業(なりわい)についての講義でした。髙橋光昭先生、増田竹之丞先生、市川俊一先生、藤野房雄先生にお話を伺いました。
最初に髙橋光昭先生から、堀兼地区の開発の歴史について学びました。江戸時代(1648年)松平信綱により新田として開発された。開発に当たっては財力のある人を任命し、その人を中心に行われた。新田の形態は個々に作業の道があり裏に雑木林のある整然とした形であった。農家の二男、三男を募集し耕作にあたらせた。武蔵野は元来、酸性土壌で、鉄分を含み、農作に適さない土地であったが灰を鋤き込んだり、焼畑などをして改良した。現在の黒土は200年にわたる人々の苦労の結晶です。と話されました。
藤野房雄先生より昭和20~40年代のこの地区の農家の生業についてのお話がありました。20年代この地区での主な農作物はお茶、芋、麦(大麦・小麦)、入間牛蒡、人参であったが、現在は里芋、大根、水菜、枝豆、ほうれん草、小松菜等である。連作の影響や気候の変動により作物も変わっていったそうです。
続いて増田竹之丞先生のお話です。“さつま床”で育てたさつま芋の苗を麦と麦の間に植えた。昭和20年代、堀兼地区は入間牛蒡の一番の生産量を誇ったが、連作障害により現在は殆ど作っていない。出荷方法は昭和20年頃では村単位での共同出荷だったが35年頃には個人出荷になり、40年代には自治会単位での共同出荷と変わっていった。昔は“くず掃き”の作業により集められた雑木林の葉や枯木は堆肥や燃料など捨てるところがなかったが現在では作業をする人がほとんどいなくなった。
続いてこの地の特産品であるさつま芋、里芋、牛蒡さつま芋の生産の変化についての話がありました。
さつま芋に関して、太白関東6号農林1号紅農林と時代の需要によって種類も変わっていった。沖縄100号はでんぷん用として作られた。
里芋は40年代になると直接土に植えるようになった。ビニール栽培により肥料を少なく時間も短縮できるようになった。
入間牛蒡の一番の収穫を誇っていた堀兼地区であったが、連作障害により現在ではほとんど作っていない。
市川俊一先生のお話で農作物の種類に関して、昔は何種類もの作物を作ったが、交通の発達により最近では適地、敵作の傾向がある。この地区でも3年ほど前から、里芋からほうれん草へと変化している。今では里芋は畑には作らず空いた土地を利用するようになった。又国の補助で井戸の掘削に着手し、いきわたるのに15年かかった。現在ではこの地区の井戸は25本で広い土地の灌漑が出来るようになった。
また、機械化や農業用道路の発達により、産地間で特産品を競うようになり、近隣で協力してなるべくいいものを作ろうとする傾向にある。
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髙橋光昭先生は平成22年3月まで狭山市立・博物館館長を務められました。
※先日の狭山市制施行60年の記念式典では市政功労者の感謝状をうけておられます。
狭山市文化財審議委員会 副委員長
さやま市民大学 狭山の歴史学科講師
狭山博物館主催 古文書読解講座講師 等もなさっておられます。
市川俊一先生は、元狭山市農業委員会 会長を務めておられました。
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