第4回 史跡・文化財めぐり「堀兼地区」
実施日:令和5年9月14日(木) 8時15分集合~12時30分現地解散
天 候:晴 34度 風なし 気温が上昇し日差しも強く校外学習には厳しい天候になりました。
地 区:堀兼地区 コース距離 約7㎞
コース:新狭山駅南口集合→新狭山ハイツバス停…光英寺…堀兼の新田開発…上赤坂の石仏群…堀兼・上赤坂公園(休憩)…堀兼神社…権現橋袂の石仏群…下新田の石仏群(現地解散)
参加者:髙橋先生 受講生19名 スタッフ6名 狭山歴史ガイドの会4名 総勢30名
◇今回訪れた「堀兼地区」の特徴
当地区は、武蔵野台地の北端に位置し古代から水の乏しい地域であるため、水に纏わる社伝がある堀兼神社や農業神・水神の弁財天、市内の井戸跡遺跡として七曲井と並び称される堀兼之井などに出会えます。また、江戸時代に始まった新田開発の歴史を継承する田園風景や、庚申塔・馬頭観音・子大権現など様々な石仏にも出会えます。今回はこの地域の歴史探訪に欠かせない「堀兼神社・堀兼之井」と石仏2点「権現橋袂の石仏群」「上赤坂の弁財天」をご紹介します。
ϴϴ ご紹介スポット① 堀兼神社・堀兼之井 所在地:狭山市堀兼2220-1
・当神社は江戸時代まで浅間宮と呼ばれていましたが、明治4年(1871)に神仏分離令の関係で浅間神社と改名され、近郷の鎮守として郷社となり、翌年村社に改められました。その後近郷の小さな神社が次々と合祀され、明治42年(1909)に堀兼神社と改められ現在に至っています。
・境内の真中に建つ朱塗りの門は、1800年代前半には建てられていたと思われる「随身門」です。随身門とは左右に衣冠束帯で武器を携えた神像が安置されている門のことで、神域と俗世界の境界に建てられます。この随身門は正式な形式を備えた市内唯一の建造物で文化的価値が高く、昭和61年(1986)に狭山市指定文化財・建造物に指定されました。(※現在、二神像は修復のため移転)
・堀兼之井は、昭和36年(1961)に埼玉県指定文化財・旧跡に指定されました。この井戸は日本武尊が東征のおり、水がなくて苦しむ住民を救うため富士山を拝んで掘ったものと伝えられています。石の欄干を巡らした直径7.2m、深さ1.9mの井戸の中央には石組みの井桁がありますが、現在は大部分が埋まっていて、かつてどのような姿であったかは不明です。
堀兼神社「随身門」前でのガイド風景 鬱蒼とした樹木に囲まれる「堀兼之井」
ϴϴ ご紹介スポット② 堀兼地区の石仏2点
★ 権現橋袂の石仏群 所在地:狭山市堀兼743付近
権現橋の由来については、橋の袂に子大権現が祀られているところから権現橋と言われ、その下を流れる川は不老川で、昔は「としとらずがわ」といわれました。権現橋下流の直線部分は伊豆堀と呼ばれ松平伊豆守が堀兼新田開発を行ったときに、河川の改修も同時に行ったためです。この橋の袂には、左側から月待供養塔・馬頭観音・子大権現・地蔵菩薩などの石仏が整然と並んでいます。
★ 上赤坂の弁財天 所在地:狭山市上赤坂67付近
農作物に豊作をもたらす作神・水神である弁財天が、ここに建てられたのは元禄13年(1700)です。頭に鳥居を戴き、右手に宝剣(現在は欠けてありません)、左手に宝珠を持つ姿に造られ、台座には波を切って走る帆掛船が刻まれています。ここは必ずしも水に恵まれていない地区であるため、田畑の養い水を与えてくれる水神として、最も知られている弁財天を建てたのかもしれません。
◇おわりに
今回は校外学習の中で最も距離の長いコースであり、厳しい残暑の下での史跡・文化財めぐりとなりました。その中で受講生の皆さんは、武蔵野の面影を残す雑木林や田園、不老川のせせらぎに癒されながら、自然豊かな行程を無事辿りました。嘗て水の乏しかった当地区に残る堀兼神社や堀兼之井、弁財天など水に因んだ史跡・文化財に触れながら、当時の民衆の厳しい生活を思い浮かべ、現在の当たり前のように供給される水の有難さを改めて感じました。
◇ 第4回「史跡・文化財めぐり(校外学習)」に参加して ◇
令和5年度「狭山の歴史講座」受講生
機関誌・広報担当 4班 三原 昭二
令和5年9月14日堀兼地区の史跡・文化財めぐりに参加した。
当日は残暑厳しく、歴史めぐりにこの酷暑は今まで経験がないとまで言われた髙橋先生は、受講生の健康面に配慮され途中での中止もありうると心配された。灼熱の陽射しは容赦なく老体にそそぐ。受講生達は気力?で頑張り全員が元気に歩き切った。
まず「念仏弐億万遍供養塔」がある光英寺に行った。念仏を二億回唱えたことが刻まれた石塔である。惣人数九百十一人で唱えたとの刻みがあるそうだ。念仏二億回のその真髄を拝察してみた。
秣場であったこの地の新田開発は雑木林の伐採から根を掘り起こす開墾作業である。加えて古多摩川の川底であったこの地は、想像を絶する石ころだらけの地。入職した近隣の次男坊三男坊は困窮に耐えながらの日夜であったことは想像に難くない。この塔刻は、将来を夢み艱難辛苦に耐えながら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、死後は極楽往生へと祈りそして願わくば現世利益をと入植者たちが念じた証と想像する。今も新田の四隅には丸い石ころが高く積み上げられている。当時の苦労のほどを窺い知る。また、武蔵野台地は古くから水不足の問題がある。堀兼、川越今福などの武蔵野台地開拓は、松平伊豆守信綱が玉川上水を分流し野火止用水(伊豆殿堀)として開削したことが始まりだ。多摩地方で大々的に新田開発が始まる8代将軍吉宗の享保の改革より半世紀も早期に始まっている。信綱の先見性に驚く。
上赤坂の弁財天の石仏台座に帆掛船が刻まれている。当時新河岸川の舟運は物流の柱。水野の給水塔の向かいに新河岸街道の説明標示がある。狭山に移住した当初は不思議であったが疑問が解けた、合点である。この石仏の土台は道標でもあったらしく行き先が刻まれている。道行く旅人への作善らしい。現代にも欲しい庶民レベルの善根である。
堀兼神社の前の道路が東山道だと知った。権現橋は近道として偶に通る道である。十数年前、武蔵国分寺跡を訪ね東山道武蔵路の遺構を見た。この時代になぜこの幅員?と思うほどの幅広い印象があり、現在のこの狭き通りからは想像できない。この堀兼之井の水は駅鈴を持った人馬の喉も潤したのかもしれない。
(文責:機関誌・広報担当スタッフ 青山 泰夫)