第3回講座テーマ:近世の村の成立と新田開発(その2)
講 師: 髙橋光昭
講座日時:令和4年9月8日(木曜日)13:30~15:30
講座方式:Zoomによるオンライン
講座スタッフ:講座リーダー;藤井立喜、スタッフ;青山泰夫、中野恒夫、森 知子、山崎 茂
講座報告者:藤井立喜
学習のねらい
近世の村の成立と狭山地域における新田開発を学ぶ。
学習の内容
川越藩の誕生と新田開発~松平信綱と新田の開発まで
3.川越藩の誕生と新田開発
(1) 徳川家康の関東入国
◆北条氏の滅亡
・豊臣秀吉の小田原出陣
天正18年(1590)1月、豊臣秀吉の宣戦布告に従って徳川家康・前田利家・上杉景勝・毛利輝元らは小田原に向けて出陣します。3月には秀吉も大軍を率いて京都を出発します。
北条氏は、まともに戦っては勝ち目がないため小田原籠城を決意します。各支城には城代を置いてこれを守らせる戦法を採用します。
・小田原落城
3月29日には前線基地の山中城(静岡県三島市)が陥落。4月に石垣山に城を築き、小田原城を完全に包囲します。上野国から南下する前田・上杉連合軍は、4月に松井田城(群馬県安中市=旧松井田町)を攻め落とすと、松山・河越・江戸の各城も陥落します。
孤立無援となった小田原城では、7月に穏健派の氏直が城を脱出。自身の切腹を条件に一族の助命を家康に嘆願します。
・北条氏の滅亡
これを聞いた秀吉は、強硬派の氏政・氏照(うじてる)には切腹を、助命を嘆願した氏直は高野山(和歌山県)へ追放の命を下します。
天正18年7月11日、氏政・氏照は切腹して果て、氏直と伯父の氏邦は高野山へ出発。早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直と5代にわたって関東に君臨した北条氏はここに滅亡しました。
◆徳川家康の関東移封
・江戸城への入城
北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、徳川家康の関東移封を命令します。
これにより家康は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の領国を離れ、天正18年(1590)8月1日に江戸城へ入城します。
・荒廃していた江戸城
15世紀に太田道灌が築城したものを北条時代に遠山氏が居城としていました。入城時は荒廃が進み、屋根は粗末な板葺き、玄関は船板3枚を並べただけというありさま、玄関の修繕を勧める家臣の言葉に対して家康は、「いわれざる立派だて」といって取り上げなかった。
◆支配体制の確立
・家臣団の領国内への配置
家臣団は天正18年9月までにほぼ関東へ入国します。
家康は榊原康政を総奉行に任じ、代官や勘定方を務める青山忠成・伊奈忠次・大久保長安らを動員して家臣団の配置と知行(ちぎょう)割りを直ちに実施しました。
・家臣団の配置と知行割りの基本方針
1万石以上の上級家臣(のちの譜代大名)は、中世以来の守護大名・戦国大名に対処するため、北条氏の支城を活用して遠方に配置する。
1万石未満の知行取り家臣(のちの旗本)は、江戸城から1泊の行程内に配置しました。
市内では、入間川村に小笠原氏・村越氏、青柳村に朝比奈氏・加佐志村に朝比奈氏・坂部氏、広瀬村に大河内、根岸村に大木氏・西山氏、笹井村に有賀氏・土屋昌吉氏・土屋正久氏・横地氏が知行地を賜りました。
・蔵入地の支配
武藏国は約3分1が蔵入地となり、その支配は大久保長安・伊奈忠次らの代官頭が行い、大久保氏の陣屋は多摩群横山(八王子市)に、伊奈氏は小室(伊奈町)に設置しました。
多摩群から入間・高麗・比企の3群にかけては大久保氏が支配。同氏は支配地の物資の集散や商品流通の振興を図りました。
(2) 川越藩の誕生
◆酒井重忠の入部
・徳川譜代の家臣
北条氏時代の川越城主は大道寺氏。
酒井氏は三河国幡豆(はず)群酒井(愛知県西尾市)の出身で祖先の広親は徳川氏の祖の松平親氏の子といわれ代々仕えていました。重忠(しげただ)は天文18年(1549)の生まれで天正4年(1576)、父の正親の跡を継いで西尾城主となり、同12年(1584)の長久手の合戦(愛知県長久手町)で活躍しました。
・川越の入部と民政
天正18年(1590)8月ごろ、川越城を賜り1万石を知行し、ここに川越藩が誕生しました。同20年の朝鮮出兵では、名護屋(佐賀県唐津市=旧鎮西町)へ出陣した家康に代わって江戸城の留守居を勤め。六斎市(月に6回立つ定期市)が開かれていた川越城下に諸役免除を命令、商人の集住と領内経済の確立を図りました。このころの藩領だった市域の村としては入間川・柏原などが考えられますが、詳細については史料がなくて不明です。
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で活躍。その功績により2万3000石の加増を受け、上野国厩橋(前橋市)へ移封。
◆酒井忠利の入部
・徳川家光の補佐役重忠の移封から8年間は幕府領として代官の支配となります。
慶長14年(1609)9月、重忠の弟の忠利(ただとし)が2万石で駿河国田中城(静岡県藤枝市)から移封。
大留守居から老中と幕府要職を歴任し、家康の命を受け、同17年(1612)から3年を費やして仙波喜多院を造営します。元和2年(1616)、家光の補佐役に就き7000石を加増。同5年にはさらに1万石を加えられ、入間・高麗・比企の3群で3万7500石となります。
・検地の実施
このころ川越藩領だった市域の村は柏原村で、元和7年(1621)に検地を実施。それによると、田11町8反5畝25歩、畑22町2反6畝8歩、屋敷1町7反5畝23歩、計35町8反7畝26歩。寛永元年(1624)の領内総検地に先立つものです。
◆酒井忠勝の入部
・家光の絶対的信頼を得た忠勝
寛永4年(1627)11月、忠利の死により嫡男で深谷城主の忠勝(ただかつ)が、遺領のうち3万石を受けて家督を相続、深谷領と合わせて8万石で移封されました。忠勝は元和6年(1620)から家光に付けられ、寛永元年(1624)には老中に就任。家光の信任が厚く、保科(ほしな)正之とともに将軍家の後事を託されたほどです。
・忠勝の藩政
領内の年貢は村請制であったが、一部の土豪的富農が隷属的農民を使役して納めるのが実態であった。そこで忠勝は寛永10年(1633)に23か条かなる農政条目を発布、農民の支配の確立を図りました。実直な性格の忠勝は時間厳守で知られ、川越城下に「時の鐘」を創設しました。
領内の寺社整備にも意を用い、喜多院に多宝塔を寄進、川越総鎮守の氷川神社、城内の三芳野天神社、毛呂郷(毛呂山町)の出雲伊波比神社の復興に尽力しました。
この当時藩領だった市域の村は、柏原・入間川の2か村が考えられるが、詳細は不明です。寛永11年(1634)、若狭国小浜(福井県小浜市)へ移封されます。
◆新参家臣の堀田正盛の入部
・在城3年で信濃国松本へ 寛永12年(1635)3月、老中に就任した堀田正盛(まさもり)が3万5000石で入部。堀田氏時代に藩領だった市域の村は、柏原・入間川・上奥富・下奥富の4か村です。在城3年で、しかも10万石に加増のうえ信濃国松本へ移封されます。
4.松平信綱と新田開発
(1)松平信綱の川越入部
◆「知恵伊豆」と称された信綱
・家光の小姓から大名へ 慶長元年(1596)に大河内久綱の子として誕生。
6歳で叔父の松平正綱の養子となる。慶長9年(1604)に家光が誕生すると小姓に抜擢されます。あふれる才知と忠誠心から将軍家の信頼を得ます。
元和6年(1620)にはじめて500石を賜り、同9年に300石の加増を受けて小姓組番頭に就任します。同年7月の家光将軍宣下の儀に上洛して従5位下伊豆の守を賜り、寛永4年(1627)に1万石で譜代大名となります。
・島原の乱を鎮圧
寛永10年(1633)、3万5000石に加増のうえ忍城を賜わり、はじめて城持ちとなります。このときから六人衆に加えられて幕政に関与、同12年には連署(のちの老中)に就任します。同14年(1637)に島原の乱が勃発。幕府は、板倉重信を征討軍の大将として派遣するが戦死。翌15年、第2次征討軍として信綱が出陣してこれを鎮圧します。その功績により同16年正月、3万が加増されて川越城に入ります。
◆信綱の藩政
・荒川と入間川の治水
荒川は寛永6年(1629)、幕府の手により流路が変更。
吉野川から市野川を経て入間川へ流すようになります。これにより、領内の川島領では洪水が多発。慶安元年(1648)から堤防強化工事を逐次実施します。
・農業技術の普及改良
慶安4年(1651)、稲作の裏作として大麦栽培を奨励します。同3年から万治4年(1661)にかけて、漆・楮・茶の栽培、飢饉予防策、用水の維持管理など、農政に関する法令を多発します。
・新河岸舟運の開設
寛永15年(1638)の川越大火で喜多院や東照宮が焼失、その再建用資材運搬の目的で内川(新河岸川)利用したのが最初です。以後、城下町の整備と歩調を合わせるように各地に河岸を開設。川越と江戸を結ぶ流通の中核として機能します。
(2) 新田の開発
◆江戸時代前期の武蔵野
・武蔵野の景観北は入間川、東は荒川、南は多摩川によって区画された広大な台地。ススキが一面に生い茂る原野で雑木は中世に開かれた古村の周囲、小河川の流域に繁茂していました。行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出ずる月影(『新古今和歌集』)
武蔵野は月の入るべき嶺もなし尾花が末にかかる白雲(『続古今和歌集』)
・採草地としての利用
中世以来の古村が、肥料になる下草や秣(まぐさ=飼料)や燃料を取る入会地として利用。広大な原野の武蔵野は古村との境界が不明瞭ながらも、幕府直轄領と川越藩領に分けられて支配していました。市域近辺では、川越に近い29か村が川越藩の武蔵野野高200石の地に、所沢市近辺の山口領31か村は幕府直轄領とされ、使用料の野銭を納入して利用していました。
17世紀になると、耕地としての可能性が領主層によって見直され、しだいに開発されるようになります。
◆武蔵野の開発
・開発の目的
幕府から武蔵野野高200石を拝領したのが契機になり慶安元年(1648)に開発を決意します。幕府に対する奉公の一手段といえるが、年貢の増収による藩財政強化が最大の目的です。
・開発総責任者の任命と以後の動き領内の古村から、開発を任せられる指導力と経済力のある者の人選から着手。同2年に上奥富村名主の次男の志村次郎兵衛を総責任者に任命します。
同時に開発引受人の人選も進め、応募者のなかから堀兼は宮沢兵右衛門、上赤坂は三島伊左衛門、中新田は尾崎三左衛門を選出しました。家臣の安松金右衛門ら5人を見分役として派遣。古村との境に塚をお築き、その上に目印の木を植樹します。
◆堀兼村の開発
・入植者による開発と地割り
慶安3年(1650)から承応4年(1655)にかけて、近隣の古村から次男・三男らが相次いで入植。原野を焼きはらったのち、鍬・鋤・鎌・モッコなどを使って開発に従事したと推察されます。
与えられた土地は、間口約20間(約36m)、奥行が約460間(約830m)前後の短冊型で、面積は約3町歩(約3ha)が平均だが、一定していませんでした。
・藩による農業指導
村としての体裁が整いはじめると、藩は強力な農業指導を実施します。麦・粟・稗・蕎麦のほか、山芋・ニラなどの栽培を奨励します。
・年貢と検地
年貢を最初に納入した年は不明、万治3年(1660)の割付状には村高記載はないが、反別は105町3反6畝2歩、損免54町9畝15歩とあります。損免は、災害時の損害に対して年貢を減免することをいうが、ここでは休耕地を損免の形で表現したものではないでしょうか。最初の検地は寛文元年(1661)5月で、入植者62人分の土地を測量。反別は211町3反3畝歩、等級や反永が決まっていない暫定的なものです。
年貢割付状への村高記載は同4年が最初で、畑屋敷合計で568石7斗。正式な検地は延宝3年(1675)で村高1331石7斗4升、反別345町8反5畝23歩と決まりました。
以上です。