第6回講座テーマ:近世の村の成立と新田開発(その1)
講 師: 髙橋光昭
講座日時:令和4年9月8日(木曜日)13:30~15:30
講座方式:Zoomによるオンライン
講座スタッフ:講座リーダー;藤井立喜、スタッフ;青山泰夫、中野恒夫、森 知子、山崎 茂
講座報告者:藤井立喜
学習のねらい:近世の村の成立と狭山地域における新田開発を学ぶ
学習の内容:村の成立と検地~村境をめぐる争いまで
1.村の成立と検地
(1) 村の成立
◆近世以前の村
・近代以前の村
村は「ムレ」から生まれました。古くは家族や同族の集団を指します。15~16世紀の村は行政としての機能はなく、共通する生活基盤の単位を指します。一般的には土豪的な名主(みょうしゅ)層が支配しています。
・市域の近世以前の村
飲料水や水田用水を比較的容易に得ることができる入間川流域や、小河川の周辺部に立村します。
入間川・奥富、柏原・根岸・笹井・三ツ木・加佐志・青柳・入曽の村々です。
◆村の成立
・全国的な土地調査
豊臣秀吉が天正10年(1582)に行った太閤検地以後、各地の領主が検地を実施します。
尺度を統一して田畑や屋敷の反別(面積)を算出。これにより村の範囲が確定します。
徳川氏による武蔵国の検地は入国後からはじまります。代官頭の伊奈忠次が行った検地は「備前検」、大久保長安が行った検地は「岩見検」と言います。
・市域の検地
市域に残る最古の検地帳は、天正19年(1591)5月の柏原検地帳。1反=300歩で、大(200歩)、半(150歩)、小(100歩)による表記が見られるのが特徴です。
川越藩領の検地帳で市域に残る最古は、元和7年(1621)7月の柏原村検地帳です。
・市域の村々で検地が実施された年は、以下のとおりです。
①天正19年(1591)北入曽村
②慶安元年(1648)上奥富村・下奥富村・広瀬村
③寛文元年(1661)堀兼村〔延宝3年(1675)再検地〕
④寛文寛文9年(1669)水野村
⑤延宝3年(1675)上赤坂村・中新田
⑥延宝5年(1677)南入曽村
⑦貞亭4年(1687)根岸村
⑧元禄14年(1701)加佐志村・三ツ木村
⑨元号は不明、入間川村・柏原新田・笹井村・青柳村
(2) 検地
◆検地の実際
・検地役人の来村
1組10名前後で、検竿・検縄・細見(さいみ)竹・梵天竹・十字などの測量具を持参して来村します。案内人に導かれて村内を巡視、田畑の良否を吟味します。
寺院や名主宅に宿泊して1筆ごとに測量します。
500石前後の村なら数日、1000石ほどでも週間から半月で終了します。
・測量の方法
不整形な土地でも長方形に測るのが基本です。これを「見込み打ち」といいます。
四隅に細見を立て、その中央に梵天竹を立てる。
検縄を向かい合った梵天竹の間に張り、縄が交差するところに十字を当てて歪みを調整します。
反別は、実測値から2割ほど控除するのが通例です。これを「縄心」といいます。
◆持高の確定と検地帳への記載
・石盛の確定
石盛(こくもり)とは、検地によって決められた反当たりの標準収穫量です。検地役人が田の生産力の高低を見極め、数か所で坪刈りを実施して決定します。
坪当たり籾1升の収穫なら1反(300坪)で3石。これを5合摺りにすると1石5斗となり、これを「石盛15」と呼称します。
・市域各村の石盛
判明しているものを掲げると以下のとおりです。読み方(田は、じょうでん、ちゅうでん、げでん、げげでん、畑は、じょうばた、ちゅうばた、げばた、げげばた)
①入間川村:上田14・中田12・下田10・上畑9・中畑7・下畑5
②下奥富村:上田13・中田11・下田8・下々田7・上畑8・中畑7・下畑5・下々畑4、屋敷10
③柏原村:上田12・中田10・下田7・下々田6・上畑7・中畑6・下畑4・下々畑3、屋敷10
④上広瀬村:上田11・中田10・下田9・下々田8・上畑8・中畑7・下畑5.5・下々畑・屋敷7
⑤笹井笹井村:上田12・中田10・下田8・上畑8・中畑9・下畑4.8・下々畑不明
⑥南入曽村:上畑9・中畑7・下畑5・下々畑3・萱畑2・藪旗10、屋敷10
⑦堀兼村:上畑6・中畑5・下畑4・下々畑2、屋敷8
⑧水野村:上畑6・中畑5・下畑4・下々畑2、屋敷10
・検地帳への記載
検地の結果は1筆ごとに検地帳に記載。
記載方法は小名(土地の所在地)ごとに、田畑の等級・反別・名請人の順に記載。
名請人とは、その土地との関係を領主によって公式に認められた者。これがその後、本百姓になります。
検地により、村は行政体として成立します。
2.村境をめぐる争い
(1) 入間川の流れ
◆『新編武蔵風土記稿』に見る入間川
・砂利川で急流
水元は秩父郡名栗村より出づ、(中略)群の南、小谷田村(入間市)と高麗群仏子村(入間市)の界より郡中に入り、こゝに至りて始めて入間川と号す。これより群界を流れて上寺山村(川越市)の西より群へ入、福田村(川越市)の西にて越辺川に合し、北へ折れて比企郡の界を延亘し、彼郡中老袋村(川越市)の地先にて荒川に入、比間群界を流るゝこと六里余、砂利川にて急流なり。とあります。
・流域村々の記述
川幅十二、三間、水漲る時は百閒にも及べり(笹井村)
上下広瀬村へかゝること十六町余、川幅平水十間ばかり、水かさ増す時百閒にも及べり。堤は入間川の縁にあり、長さ百閒余、馬踏四尺あるひは二間半、御普請所なり(上広瀬村)
川幅五、六町、石川にて常には歩渡す(入間川村)
村下にかゝること三十町余、川幅平水二、三間、川附に長さ二十町余の堤あり、普請は毎年にして国役或は領主或は村の入用にて、其の時宜に従う(柏原村)
川幅三町許、川岸に堤を築きて水溢に備ふ(上奥富村)
川幅五十間(下奥富村)
川の幅は二十間ばかり此の川にそひて水よけつゝみあり(柏原新田)とあります。
◆地形から見た入間川
・高低差は30m
上流の笹井では標高が約65m、下流の柏原新
新田では約35m。その間の距離は約7,6㎞。1000mで約4mの高低差です。
(2) 入間川の氾濫
◆たびたび発生した水害
・元禄3年(1690)の水害
6月と7月の大雨により、上広瀬側の堤防が160間(約290m)にわたって決壊。被害状況は不評です。
・寛保2年(1742)の水害
8月1日、前月から降り続いた大雨により各地で堤防が決壊。川越藩領だけでも決壊箇所が96か所、総延長は1058間(約1925m)でした。
柏原村では4か所で決壊、その長さは264間(約480m)に及び、3町歩(約3ha)の田畑が石砂置の状態となる。
・寛政3年(1791)の水害
根岸村から上広瀬村にかけて、80間(145m)にわたって堤防が決壊。田畑が石砂置になる。
・文政6年(1823)の水害
下奥富村の堤防6か所が決壊。総延長は199間(約360m)。
市域上流では川の流れが変わり、下広瀬村地内を流れるようになる。
・天保7年(1836)の水害。
夏と秋の大雨で堤防5か所が決壊。総延長は89間(約160m)。
・同11年(1840)の水害
下奥富村で堤防2か所が決壊。総延長は154間(約280m)。
・安政6年(1859)の水害
笹井村では用水堰100間(約180m)がことごとく流失。下広瀬村では民家が流失、上広瀬村、柏原村の田畑が冠水しました。
(3) 村境をめぐる争い
◆柏原村と下奥富村
・承応4年(1655)の取り決め
入間川の流れを村境としたが厳密な境は未定です。そのため論争が発生、承応4年に幕府の裁断を仰いで決定しました。
測量の基準となる証文塚を相互に築造して、一定方向への距離を計測して決定します。絵図面を作成して両村で所有します。
・享保18年(1733)の争論
たびたびの水害で流路が変更したため、柏原村で築造した川除堤の位置をめぐり、下奥富村が異論を唱えて提訴しました。
柏原村は古証文に基づき自村内の築堤と反論。
これにより村境(群境)争論へと発展します。
柏原村は川越藩領、下奥富村は幕府の直轄領だったため、幕府評定所の判断を仰ぐ大騒動となります。
享保19年3月、柏原村の主張が認められて下奥富村は敗訴します。ただし、村境は現在の流れをもって定めるとの判決が出ました。
・文政13年(1830)の争論
村境がわからなくなったことから再度発生。下奥富村と柏原新田の両村が柏原村を提訴しました。幕府役人が実地検分のうえ、享保19年の村境を持って示談とすることで決着しました。
◆入間川村と上広瀬村
・元禄3年(1690)の取り決めこの年の6月の水害により村境(群境)が不明となり、決壊した上広瀬の築堤に関し、入間川村が提訴します。
幕府は上広瀬村の築堤を認め、村境についても証文塚を築いて確定することで決着しました。絵図面を作成して両村で所持することとなりました。
・弘化2年(1845)の争論
入間川の流路が洪水により変わり、入間川村の水田用水が不足することから、村境の変更を求めて入間川村が提訴しました。これに対して上広瀬村は変更できないと反論、同3年、元禄3年の村境を遵守することで決着しました。
以上(村の成立と検地~村境をめぐる争いまで)です。
- 次回は(その2)(川越藩の誕生と新田開発~松平信綱の新田開発まで)を掲載いたします。