霞ヶ関カンツリー倶楽部と發智庄平
日 時:9月14日(水)13:30~15:30
講 師:霞ヶ関郷土史研究会 發智 金一郎 様
受講生:出席9名(欠席2名)
今回講師の發智金一郎さんは、霞ヶ関カンツリー倶楽部を創立した發智庄平氏の曾孫にあたられる方です。1951年発足の霞ヶ関郷土史研究会会長を務められる傍ら、霞ヶ関地区子どもサポート事業「地域啓発講演会」での講演などもしています。川越市市制施行90周年の際には、「写真で見る霞ヶ関の歩み」も発行されたそうです。霞ヶ関の地名は、柏原と上広瀬の境の崖の名前だったとか……。明治の町村合併の時、笠幡村、的場村、安比奈新田が霞ヶ関村となりましたが、柏原村はこれに参加しなかったそうです。元々狭山にあった名前が今は狭山ではなく川越の地名として使われているとのことでした。
發智庄平翁の生い立ちと業績
發智庄平翁は1864年入間郡黒須村の繁田家に生まれ、母方の実家・發智家の養子となりました。埼玉県立師範学校高等師範学科を卒業後、入間郡高萩村鳳鳴小学校教諭として教員生活をスタートします。1887年には出生地の繁田邸内に黒須高等小学校を開設し、校長を務めます。1898年に退職後、自宅内に霞ヶ関青年道徳研究会を設立し、論語、道徳、経済を教えました。1900年には渋沢栄一の支援を得て、株式会社黒須銀行を設立し頭取になります。1907年には霞ヶ関尋常小学校の敷地を寄付し、1914年から1926年まで霞ヶ関村の村長を務めました。1918年には経営難に陥っていた埼玉育児院を引き継ぎ、渋沢栄一の協力を得て社団法人埼玉育児院を設立、1928年には霞ヶ関カンツリー倶楽部の東側に院舎を移転しました。
このように發智庄平翁は明治から昭和前期の教育者であり、社会事業家で、渋沢栄一氏とも親交を深めた篤志家として知られています。
ゴルフとの出会い
では、なぜ篤志家の庄平翁がゴルフと結びついたのでしょうか。1927年、黒須高等小学校の教え子たちが、笠幡にある野戸池の湖畔に發智庄平翁の銅像を建てました。その除幕式の出席者の中に星野正三郎(星野リゾートの前身星野温泉旅館開業者の次男)氏がおり、銅像周辺の山林を見て、「この辺にゴルフ場を作ったらどうか」と話を持ち掛けました。『ゴルフ』という言葉を初めて聞いた發智翁が何をするところか尋ねると、「小さなボールを穴に入れるゲームで、日本でもこれから盛んになるよ」との答え。それを聞いた庄平翁は、村の人々の仕事場になり、ひいては村の発展にも寄与するはすだと考え、即調査を依頼しました。その結果、地形は有望だが平坦すぎ、交通不便であるとの理由で建設計画は中断されました。
倶楽部開場から東京オリンピック会場へ
諦められない發智翁は建設費として3万円(総工費は12万円)用立てると申し出、1929年1月にゴルフ場建設が決まりました。コースの建設には、近隣数か所の村からも毎日500人を超える作業員を動員し、庄平翁自身も現場監督を買って出て毎日現場に足を運び、1929年10月には開場式が行われました。当日、開場式を見学しようと集まった地域の人たちは、数千人に達したそうです。
その後、1932年には日本で初めての36ホールを有するゴルフ場になりましたが、財政難のため1933年には東コースの土地を売却します。1936年2月、發智庄平翁は永眠しましたが、1940年には東京ゴルフ倶楽部と合併します。1957年にはゴルフの国際大会「カナダカップ」が開催され、日本人が団体、個人で優勝し、初めてゴルフ競技がテレビで放映されました。1965年以降になると各地にゴルフ場が建設され、一般の人がゴルフを楽しめるようになりました。そして、2020年、霞ヶ関カンツリー倶楽部がオリンピックのゴルフ競技場として選ばれたことはご承知の通りです。
質疑応答
「柏原が不参加なのに霞ヶ関が川越の地名になったのは残念」「發智氏は立派な教育者、社会事業家だったことが分かった」といった意見が出されました。「庄平翁の長男太郎氏のとん挫したレジャーランド計画には遊園地があったのか」という質問には、遊園地、別荘等いろいろな計画があったとのことでした。また、戦争中もゴルフ場は開場されていて、終戦間際になって閉鎖されたが、戦後は進駐軍が来てすぐに再開されたとのことでした。金一郎さんによると、子供の頃家の前のガソリンスタンドに大きな外車が入って来たのを覚えているそうです。
受講生感想
❖ 発智家が鎌倉方の武士出身だということは初耳で驚きました。発智家、繁田家両名家の華麗なる人脈、繁田家の教育体制や社会福祉事業に感心しました。緻密な計算の元に事業拡大なさっているのかと思っていましたが、夢のある総合レジャーランド計画を実施したとは全く知りませんでした。
❖ 明治17 (1884) 年、柏原村と笠幡村、的場村、安比奈新田の4か村が合併し、霞ヶ関村になろうとしたが、柏原村が合併しなかったことを知りました。サイボクは九星から土地を購入したこと、発知家は敷地が3000坪もある豪農であったこと、昭和7 (1932) 年、入間川から笠幡までの鉄道敷設計画があったことを知りました。また、発知家は信州発知村の出身であることや星野家とも付き合いがあったことなど、新しいことを色々知りました。
❖ 発智庄平氏の生い立ちから、教育・産業・金融にまで才覚を発揮されたこと、星野氏との出会いから日本初の36ホールゴルフ場ができたこと、しかもそこには政界・財界・華族など名だたる賛同者が関与していたこと、また、氏の思想、民衆の幸福を願う精神、大変素晴らしい方がいらしたことを初めて知りました。また、昭和初期のゴルフ場造成の様子を記録した貴重なビデオを拝見出来ました。
❖ 發智庄平翁が、霞ヶ関カンツリー倶楽部の創設ばかりでなく、教育者、経済人(銀行の創立等)の面でも活躍されたことを初めて知りました。繁田武平氏の兄であることも知りませんでした。先日、發智庄平翁の弟 繁田武平氏が設立した旧黒須銀行へ行ってまいりましたが、渋沢栄一翁との関係、道徳銀行名付けの由来等々入間市としてもPRに努めているようです。10月8日(土)に一般公開予定があるとのことで、同時に石川組西洋館もこの日は見学できるようです。