狭山台地区は平地林であった
日 時:12月14日(水)13:30~15:30
講 師:狭山市文化財保護審議委員 権田 恒夫 様
受講生:出席10名(欠席1名)
「いただいた演題は『狭山台地区は雑木林であった』ですが、『平地林』がより正しい表現なのではないか……」。そんな話から今日の講義が始まりました。秋には赤や黄色、茶色に彩られる平地林は武蔵野ならではの美しさです。狭山台は自然災害が少なく、市内屈指の高級住宅地で高層建築や戸建て住宅が広がり、交通の便の良い緑豊かな生活環境が整った地域です。そんな狭山台を、権田さんは「狭山市の田園調布」と名付けているそうです。
地域の概観
良く聞く「武蔵野台地」という言葉ですが、今は「武蔵野」とだけ言うそうです。昭和59年に国土地理院が台地をつけないと決めました。狭山台地区は古多摩川が造った扇状地の一部で、関東ローム層の上にあるのはご承知の通りです。植生の遷移の説明の時には「太古、武蔵野は砂漠だった」との話がありました。「火山灰の裸地=砂漠」から荒原になり、原野、草原、照葉樹林になっていきました。武蔵野を有名にしたのは国木田独歩、雑木林を有名にしたのは徳富蘆花だという話から、昔話の「おじいさんはシバ刈りに」の「シバ刈り」は、「枝の伐採」の意、農家で「ヤマに行ってくるよ」との「ヤマ」は「平地林」のことだとか、興味深いお話が続きました。なお、現在国土地理院が発行する地図に日本で唯一「砂漠」と表記された場所は三原山の「裏砂漠」だけだそうです。
狭山台地区の変遷
明治14年の地図を示して、「1時間見ていてもあきない。明治以降の移り変わりが良く分かる」という権田さん。その頃の地図は軍事利用目的で陸軍が作成したそうですが、樹林、畑地、茶畑等が広がっています。昭和42年には16,000人ニュータウン構想が発表され、45年には住宅公団が狭山台団地の造成工事を開始します。昭和49年には地区名が「狭山台」となり、造成工事が完了します。直線と曲線を組み合わせた幹線道路が企画され、狭山台1丁目と4丁目を結ぶ道路の街路樹は、両側に県木のケヤキが植えられ、中央公園を始め8か所の公園は武蔵野平地林の面影を残しています。権田さんは、「曲線の道路を入れたことも素晴らしいし、よくぞ緑を残してくれた」と言います。
昭和50年には狭山台団地の入居が開始され、住宅不足になっていた東京都からたくさんの方が入居します。数年で県内屈指の高層住宅と住宅地に変貌しました。狭山台出張所ができ、狭山台北小学校、狭山台南小学校、狭山台中学が開校します。西武新宿線は入間川駅まで複線化し、今では特急の停車駅にもなり、交通の便がさらに良くなりました。地区内には休日急患センター、保健センター、教育センター、体育館と図書館、元気プラザ等が次々に開設されました。
当初の人口は1万人程でしたが、平成の初めごろには1万5千人を超しました。その後は減少し続け、現在では老齢化率40%を超え、超高齢化と独居化が進んでいます。児童数も、当初は狭山台北小が950人、狭山台南小が1,126人でした。その後増え続けましたが人口と同じく減少に転じ、平成22年にはそれぞれ257人、357人になって35年の歴史を閉じました。両校は統合され狭山台小学校となりましたが、現在では児童数414人になっています。
狭山台地区のまちづくり
狭山台地区では、「狭山台地域づくりをすすめる会」が中心になり、いくつもの事業を実施しています。「ぼうけんあそび場『ほんきっこ』」、「食のフェスティバル おいしんぼ祭り」、「狭山台安心・安全マップづくり」、「元気 朝市」、「狭山台ふるさと祭り」などです。2017年、「めざせ。認知症を予防する街狭山台、認知症になっても安心な街狭山台」で、厚生労働省から「厚生労働省老健局長 優良賞 団体部門」を受賞したそうです。
質疑応答
「狭山市には弥生時代が無いとのことだが、見つかっていないだけではないか。洪水で遺物等が流されてしまったのではないか」の質問には「入間川近くに田ができるはずだが、奥富、柏原、水富あたりは水田が豊かではなかった。養蚕をしていた方が良かったのではないかと思われる」とのお答えでした。「高齢化が進んでいるが、若い人が入って来て住みやすい街づくりの活動に協力してくれるだろうか」との問いには、「高島平では若い人がまちづくりに関わるようになり、学生もまちづくりに協力している。人口も微増ながら増えている。成功例もある」また、「新河岸街道は地図にありますか」の質問には、「残念ながら狭山台地区は通っていないのではないか」とのお答えでした。
受講生感想
❖ 権田講師の人柄か、特に「狭山愛」を感じました。歴史ばかりでなく、現在抱えているマンション老朽化問題等もお話しいただきありがとうございます。緑を残すということからみれば樹木の伐採等はもっと慎重に検討すべきですね!狭山台の歴史を知ることで、他地域のことももっと知りたいと思いました。
❖ 地質、植生、古地図、空中写真、土地開発の変遷、人口の変動などさまざまな観点から狭山台地区のことを真摯に研究され、その知識を惜しみもなくお伝えいただき感謝してやみません。ありがとうございました。平地林を活かした公園と街路樹のある整然とした道路、整備された理想の街並みの狭山台で高齢化が進み、街路樹が切られ、先行きに暗雲がたちこめていることを初めて知りました。緑をたくさん残したきれいな街並みとそこに住む人が長く共存できる方法を真剣に考える時期だと思いました。
❖ 狭山市のど真ん中に大規模な団地をつくり、そこに1万人以上の新規住民を迎え入れようと考えた当時の市長或いは市議会の思い切った施策が今の狭山市を創ったのだという事を改めて凄い英断だったのだと感心しました。私が狭山市に移住した時期(50年前)と重なるので、ひと際感慨深いものが有りました。狭山台団地の入居率低下とその対策を市とURはどのように考えているのかを知りたくなりました。