生涯現役の思考:実業家・渋沢栄一に学ぶ
日 時:6月11日(土)10:40~12:10
講 師:東京国際大学教授 高田知和先生
受講生:出席8名(欠席0名)
高田先生と渋沢栄一
24ページにもなるデータ。これは講座前に高田先生から受講生に送られた講義のための資料です。これだけでも、高田先生の渋沢愛がどれほど深いかが分かります(先生曰く、「歴史的な報告なのでどうしても史料が多くなってしまう」とのことでした)。今回はそんな高田先生の熱い講義です。高田先生は深谷市出身。幼いころから渋沢栄一の生家近くにいながら、「中の家」を訪れたのは研究をするようになってからだと言います。普段ドラマはあまり見ず、昨年の大河ドラマも見ていないそうで、受講する皆さんがどのくらいの知識を持っているか分からない……と話します。今日は、渋沢の人となりを知った上で、引退後の郷里との関わりから、「生涯現役」を通した渋沢の生き方について考えていきます。
渋沢栄一について
大河ドラマの通り、農民から幕臣、新政府の役人、実業家へと身分を変えた渋沢栄一は、欧州の産業、制度を見聞した経験から第一国立銀行を創設しました。その後、近代国家として洋紙の必要性から製紙業、貿易の中心であった紡績業、岩崎の海運事業独占に対抗して運輸業、保険業等と、国の発展に必要となる多くの近代的企業の創立と発展に尽力しました。さらに、教育振興、学術・文化の助成、公共・社会事業にも寄与しました。喜寿ですべての役職を退任し、以後は民間での活動に専念します。
山本七平は城山三郎との対談で、渋沢には「農民的勤勉性と商人的感覚と武士的な教養ないし意識が一つになっているようなところがある。こういうタイプの人間は幕末にならないと出てこない」と述べています。尾崎行雄によれば、「粘り強く、信念の人」。一方40歳代の自伝「雨夜譚」では数々の怒りを見せ、いざという時には命に換えても怒ることを辞さなかったといいます。高田先生は、「嫡孫の渋沢敬三によれば、栄一は80歳を過ぎた頃からは、非常に温容な人柄になった印象があるという」、「埼玉学生誘腋会百年史編纂に携わった時の資料からも、学生に対しても親切で熱心であったように思える」と話されました。
地域社会への関わり
渋沢栄一は「地方は国家繁栄の源である」との考えから、地方の振興を非常に重視しました。77歳で実業界を引退した後、毎年郷里の鹿島神社の祭礼に行き、獅子舞の持続に力を尽くしました。村立小学校・図書館・教育基金に寄与し、水害にも救済の手を差し伸べました。八基村農政談話会の顧問に就任して、産業基本調査や青年の教育に尽力しました。データから村政を展開していくことを期待したのです。渋沢は煮ぼうとうが好きだったと言われていますが、耕地整理をして田を増やそうと思ったが増えないと知らされた時は、がっかりした顔をして「まだ、煮ぼうとうを好きだと言わなければならないな」と言ったとか……(これは栄一の甥の渋沢治太郎八基村長の談話です)。公民学校を設立したときには当時としてはレベルの非常に高い宇都宮高等農林学校から教員を呼んできているそうです。
米寿の渋沢は「生命ある限り国家社会の為に尽くさなければならぬ。90歳ごろまでは必ず活動できると思う」と述べ、90歳で「人は生きている限りその社会に対しての責任がある。己一個の事を為したからとて、それで務めを果たされてはいないのである」と語っています。高田先生曰く、「90歳の人からこういうことを言われたら、返す言葉もありません」。
質疑応答
「渋沢栄一のこういう考え方はどこから来ているのか」
→儒学的な教えや素養があったのではないか。もともと武士気質があった所に、後期水戸学の考え方が大きく影響していると思う。家来の側でも率先して動いていくような考え方が見られる。
「パリ万博に行かなくても目的は達成できたと思うか」
→19世紀フランスで見聞きした考え方の影響は非常に大きい。地元に残っていたら、地元ならではの働き方をしていたのではないかとは思うが。
受講生感想
◆ 昨年大河ドラマを観、イメージとは違う渋沢栄一に「これは事実だろうか?脚本家が色付けしているのでは?」という疑問を抱きました。例えば、すごく短気でいつも怒っている彼、常に多忙の中であんなに頻繁に実家に戻れたのか、女好き等々。でも、「農民的勤勉性と商人的感覚と武士的な教養や意識」を持ち、強靭な身体の持ち主だったという事実を知り、今回すごく納得できました。以前より、より深まった高田講師の「ふるさと愛」、「渋沢栄一愛」を感じました。壱万円札が発行されるとまた違う角度からの「渋沢栄一」を紹介して頂けると楽しみにしています。
◆ 大河ドラマも関係して、渋沢栄一は気になる存在で、テレビや新聞に名前があると見聞きしていました。そのため興味深く拝聴しました。大きな変革の時代にその波に乗りながらも、流されず志を強く持ち生き抜いた尊敬すべき人であると思います。新しい日本の先導者として大きな役割を果たしながら、落ちこぼれ的な人々にも目を向けて救済し、社会福祉事業のさきがけを行ったことには感服します。又、渋沢の気質・素質を教えて頂き、あの時代荒波を乗り切るために必要だったのだろうと思いました。現代にも通じるものであると思いました。