日程: 令和2年1月6日(月)
講師: 狭山市文化団体連合会 前会長 横山千枝子 様
狭山歴史ガイドの会 川田なみ子 様
会場: 狭山元気プラザ 大会議室
受講生: 出席26名
令和2年新春を迎え、気持ちも新たに授業に取り組みました。
1.民話「影かくし地蔵さま」の歴史背景の学習
川田みな子様(狭山歴史ガイドの会)より民話「影隠地蔵」の歴史的背景を学習しました。
1)「影隠地蔵」の安置場所
現在、影隠地蔵は奥州街道・信濃坂の登り口の茂みの中にたっています。奥州道は鎌倉街道上道です。
狭山工業団地の開発による道路拡幅以前は上広瀬側にあり、さらに明治7年(1874)廃仏毀釈以前には、木造の影隠地蔵が正覚院の地蔵堂に安置されていたとのことです。
木造の影隠地蔵は破棄されましたが、近隣の農民が哀れみ石造の影隠地蔵を復元し安置したのです。
2)「源義高」
源義高の父親は源義仲(木曽義仲)、義仲の従妹が源頼朝です。祖父は義賢、嵐山町の大蔵館に居住していました。源平の争いにおいて、義仲が勝利して京都にはいると、義仲と頼朝は争うようになり、義高を鎌倉に人質として差し出されました。頼朝と妻政子は、義高を娘大姫の許嫁にします。
3)「義高逃避行」
義高は頼朝が義仲を討ち、さらに娘の許嫁である義高の殺害を企てます。政子と大姫は義高を女装させて逃します。義高は、鎌倉から嵐山の大蔵館に逃げようとしたのか?入間川を渡って地蔵菩薩の後ろに隠れたのか?入間川の手前で見つかってしまったのか?鎌倉で殺されたのか?史実は判然とせず、諸説あるようです。
ちなみに、5月開催の義高ウォークに参加すると、狭山市駅から大蔵館まで約27km鎌倉街道を歩き、歴史ガイドの会の皆さんから解説を受け、往時を偲ぶことが出来ます。
4)「清水八幡神社」
入間川河原でとらえられて12歳で殺害された義高の首は鎌倉に送られましたが、胴体は村民が埋葬しました。悲みにくれる大姫を不憫に思い、政子は義高を祀る清水八幡宮を建立しますが、社は入間川の氾濫で流されてしまいました。石嗣は成円寺境内に移設されていますがその御堂も流されてしまいます。
昭和34年(1959)16号線の脇に再建されました。地元では、5月に例大祭を催して義高を偲んでいます。
5) 語り継がれる「義高物語り」
義高の死後、大姫は悲しみ病になり、20歳に若さでこの世をさります。
この悲恋は庶民の共感を呼び、鎌倉時代には「源平盛衰記」、「平家物語」、「吾妻鑑」、江戸時代にかけては「清水冠者物語」、「新編武蔵風土記稿」などに義高物語として語り継がれ、歌舞伎でも演じられてきました。
6)「源義高の墓」
義高の胴体は狭山市内に埋葬されましたが、首は鎌倉に送られ大船市常楽寺の墓(「木曽冠者義高公の墓」)に埋葬されました。常楽寺は大姫の死後、政子が大姫と義高のために創建したともいわれています。
2.狭山の民話「影かくし地蔵さま」を語る
今回は、歴史的背景を学んだ後、民話に取り組みました。
正月にのんびりしたためか! 寒さのためか! 「影かくし地蔵さま」に初めて取り組んだためか! いつもよりなめらかな語りになっていないように感じました。
横山先生よりは一人一人細かく丁寧に指導を受けました。
・タイトルコール後、出だしの「いつからだろう・・・」では、聞き手になにが始るのかな? と思わせる余韻を持った語りが必要では・・
・情景が変わる際には、間をとり雰囲気を変えることが必要では・・
・セリフでは、その人になりきる・・
義高(元服前の少年)、大姫(棟梁の娘で10代)、では、語り手は若かりし時の自身を思い出しては・・
・頼朝は源氏の棟梁であり、政子は頼朝の妻です。自身の壮年期頃思い出し、役になりきっては・・
・笑顔で話すところ、悲しんで語るところ、どのように感情表現するか。
・言葉のしゃくりあげ、アクセント、語りは朗読ではないことを意識する。
なかなか難しいようですが、きっと次の授業では語りになると思います。