「狭山の歴史講座」校外学習第5回 史跡・文化財めぐり「堀兼地区」
実施日:2019年10月10日(木) 8時15分集合~12時45分現地解散
天 候:晴 25度 風なし 朝方低かった気温も徐々に上昇し心地よい天候でした。
地 区:堀兼地区 コース距離 約7㎞
コース:新狭山駅南口集合→新狭山ハイツバス停…光英寺…堀兼の新田開発…上赤坂の石仏群…堀兼・上赤坂公園(休憩)…堀兼神社…権現橋袂の石仏群…下新田の石仏群(現地解散)
参加者:髙橋先生 受講生13名 スタッフ6名 狭山歴史ガイドの会5名 総勢25名
◇今回訪れた「堀兼地区」の特徴
当地区は、武蔵野台地の北端に位置し古代から水の乏しい地域であるため、水に纏わる社伝がある堀兼神社や農業神・水神の弁財天、市内の井戸跡遺跡として七曲井と並び称される堀兼之井などに出会えます。また、江戸時代に始まった新田開発の歴史を継承する田園風景や、庚申塔・馬頭観音・子大権現など様々な石仏にも触れ会えます。今回はその中で、武蔵野の面影を残す本コースを象徴する「堀兼の新田開発」と「堀兼神社・堀兼之井」をお勧めスポットとしてご紹介します。
ϴϴ お勧めスポット① 堀兼の新田開発 所在地:狭山市堀兼地内
・天正18年(1590)に徳川家康が江戸に入国すると、それを契機に年貢の増収を目的にし、広大な原野であった武蔵野の新田開発が着手されました。堀兼の新田開発もその一環として川越藩の政策で行われたものです。狭山市内の新田村で最も古いのは柏原新田ですが50石余の小村でした。その後に開発されたのが堀兼村で、延宝3年(1675)の検地では1,300石余もあり、当市内における最初の本格的新田村といえます。開発に着手したのは慶安2年(1649)で、開発を命じた人は川越藩主で当時老中の「知恵伊豆」と称される松平伊豆守信綱です。
・この新田の特徴は土地区画が整然としている点にあります。入植者に与えられた土地は、間口が約20間(約36m)・奥行き約460間(830m)の短冊型の土地で、面積は1戸当たりおよそ3町歩(約3ha)と広大でした。入植者は主に近隣の古村の次男・三男で、原野を焼き払った後に、鍬・鋤・鎌・モッコなどを使って新田の開発に従事したと推察されます。村として体裁が整いはじめると川越藩の農業指導により、麦・粟・稗・蕎麦・山芋・ニラなどの栽培が行われました。
ϴϴ お勧めスポット② 堀兼神社・堀兼之井 所在地:狭山市堀兼2220-1
・当神社は江戸時代まで浅間宮と呼ばれていましたが、明治4年(1871)に神仏分離令の関係で浅間神社と改名され、近郷の鎮守として郷社となり、翌年村社に改められました。その後近郷の小さな神社が次々と合祀され、明治42年(1909)に堀兼神社と改められ現在に至っています。
・境内の真中に建つ朱塗りの門は、1800年代前半には建てられていたと思われる「随身門」です。随身門とは左右に衣冠束帯で武器を携えた神像が安置されている門のことで、神域と俗世界の境界に建てられます。この随身門は正式な形式を備えた市内唯一の建造物で文化的価値が高く、昭和61年(1986)に狭山市指定文化財・建造物に指定されました。
・堀兼之井は、昭和36年(1961)に埼玉県指定文化財・旧跡に指定されました。この井戸は日本武尊が東征のおり、水がなくて苦しむ住民を救うため富士山を拝んで掘ったものと伝えられています。石の欄干を巡らした直径7.2m、深さ1.9mの井戸の中央には石組みの井桁がありますが、現在は大部分が埋まっていて、かつてどのような姿であったかは不明です。
この堀兼之井は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる掘り難いの「ほりかねの井」の一つと考えられます。事実であれば、この井戸の掘られた年代は平安時代までさかのぼることになります。
◇おわりに
今回は、校外学習の中で最も距離の長いコースでしたが、受講生の皆さんは武蔵野の面影を残す雑木林や田園、不老川のせせらぎに癒されながら、自然豊かな行程をゆったりと辿りました。かつては水が乏しかった当地区に残る堀兼神社や堀兼之井、弁財天など水に因んだ史跡・文化財に触れながら、当時の民衆の厳しい生活を思い浮かべ、現在の当たり前のように供給される水の有難さを改めて感じました。次回は、「奥富地区」の史跡・文化財めぐりです。お楽しみに…。
◇ 第5回「史跡・文化財めぐり(校外学習)」に参加して
機関誌・広報担当 2班 粕谷 安男
秋晴れの中、我々は新狭山駅南口に集合し8時22分発の新狭山ハイツ行きのバスで終点迄行き今回の史跡・文化財めぐりはスタートしました。
今回の校外学習で私の記憶に強く残ったものは、①堀兼の新田開発 ②光英寺の念仏弐億万遍供養塔 ③新田開発の墓地 ④上赤坂の弁財天です。
堀兼の新田開発は慶安2年(1649)に川越藩主の松平伊豆守信綱の命により開発に着手し上赤坂や中新田、それに現在は川越市分の今福・中福・上松原・下松原・下赤坂と同時に開発されました。入植者が藩から与えられた土地は間口20間(約36m)奥行き460間(約830m)の短冊型(長方形)で面積は3町歩(約3ha)前後でした。
寛文元年(1661)5月に土地面積を測り畑の等級や生産高を決める検地が実施される。検地帳を見ると入植者は62人となっています。機械力がない時代に、原野を切り開くのもすべて人力です。来る日も来る日も鍬(くわ)や鋤(すき)・鎌などを手にして、不毛の大地を穀倉地帯に変える大事業に立ち向かいましたが、先人達にも先行きへの不安や葛藤が有ったと思います。
そのような不安や葛藤を和らげるために、念仏供養が行われ仏の姿や功徳を心に思い浮かべながら極楽往生や現世利益を願ったものと思います。講員達はお堂や当番の家に集まり車座になって大きな数珠を繰りながら念仏を唱和し弐億万回の記念に光英寺に念仏弐億万遍供養塔(享保12年(1727)2月)を建立したと思います。
新田開発は近隣村からの入植者によって行われ、その多くは家督を継げない次男・三男が主体でした。彼らは生家を離れ、みずから開いた村を永住の地と決めましたが、新田には寺院も墓地もありません。そのために入植者達は、永遠の眠りにつく墓地を屋敷の裏や畑の一画に設けることにし安心して次の跡継ぎに送っていったのでしょう。
又、我々の生活には水が切っても切れない関係にあるように農民にとっても、適度な水の恵みは豊作に繋がり、度を越した大雨になると作物は壊滅的な打撃を受けます。よって水の神様として古くからの信仰のある、この弁財天を元禄13年(1700)11月に造立したのではないでしょうか。
この一連の流れを思うと先人たちの土地に対する思い・執念を強く感じた史跡めぐりでした。