オンナ磨きは自分しだい、女子力アップ講座
~まちの元気は女性から~ 第5回報告
日 程:平成30年6月8日(金) 14:00~16:00
講 師:元内閣官房長官 大野松茂 様
会 場:狭山元気プラザ パソコンルーム
受講生:出席22名(受講生25名)
今回の講座では、朝鮮の歴史にたいへん詳しい大野松茂先生に講師をお願いしました。
たいへんお忙しい中、とても詳細な資料と分かり易い丁寧な講義で、「李 方子の生涯」について学ぶことができました。年譜を見ただけでも、今の私たちには到底体験することの無い、そして言葉では言い表すことのできない、なんて苦労多き人生をおくられた方なのだろうと感慨深い思いがありました。それでも「幸せな人生だった」と言い残した方子・・・・・・一人の女性として、妻として、母として、激動の時代を生き抜いた87年間を、女性として、もっと知りたい・・・と強く感じました。
ねらい:輝く女性の生き方 “李 方子” に学ぶ
日本の皇族から朝鮮王朝最後の皇太子妃に・・・韓国、障がい児教育の母となり、日韓 の架け橋となった女性、その波乱の生涯と生き方について考える。
梨本宮 方子(李 方子)
1901年11月4日、梨本宮守正の第一王女として誕生。
昭和(裕仁)天皇より半年遅れで生まれた。後に裕仁親王が皇太子になった ことで、有力なお妃候補の一人となる。
学習院で学ぶ15歳の夏休み、大磯の別荘で新聞に掲載された自分の婚約記事を見つけて驚く。
≪李王世子殿下、梨本宮方子女王とご婚約≫
言うまでもなく、政略結婚である。「内鮮一体」が当時の日本国の国是であった。
李垠殿下 (夫)
1897年10月20日、朝鮮王朝26代高宗皇帝の第4王子として誕生。1907年12月15日、10歳で朝鮮から伊藤博文に伴われ、留学とは名ばかりの「人質」として日本留学を強要された。学習院に入学し、卒業後は陸軍に入隊、軍人としての生活をおくる。
2人の生活
1920年4月28日、李垠殿下(23歳)方子(20歳)、李垠邸にて挙式。
1921年8月18日、第一王子「晋」が誕生。
1922年4月23日、夫妻は晋を連れて朝鮮に里帰りをする。2週間に及ぶ全 ての行事を終え、まもなく帰国という時、晋は急死した。
死因は消化不良とさ れたが毒殺とも言われている。
1931年5月8日、第2王子「玖」を産む。
晋亡きあと、王家の世嫡は玖のみとなった。日本国は李玖を朝鮮王家の皇太 子と認めた。教育は母と同じく学習院で受けた。
1945年8月15日、敗戦、同時に王族の立場を剥奪。二人とも、生まれつきの王族で、生活力が無く、お金を持つことも、使い方すらわからなかった。 たちまち生活は困窮していく。
1954年9月29日、邸宅(赤坂プリンスホテル旧館)を売り払う。気力を失い、祖国への帰国を願うが、祖国からの返事は冷たかった。
帰国も叶わず援助もない状態が続いたが、この苦境を知って、昭和天皇、吉田茂首相、朝鮮総督府のOBの財界人などが、援助を申し出てくれた。
祖国へ
1958年3月16日、李垠殿下 脳血栓で倒れ、歩行困難となる。
1963年11月22日、韓国で李承晩(イ・スンマン)政権が崩壊した後、 朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の助けで親子3人は帰国し、昌徳宮に住んだ。この時、李垠殿下は脳血栓で倒れており、意識も昏睡状態であった。
1967年、韓国で看病をしながら、夫が元気だった頃の夢の実現に向けて福祉活動に取り組む。同年、障害を持つ子供のための施設「明暉園」設立。 自作の七宝焼き、絵、書等を販売して事業の運営資金集めをした。
1970年5月1日、李垠殿下逝去(72歳)
1972年、精神薄弱児のための教育機関「慈恵学校」設立。
1989年4月30日、李方子 韓国・ソウルの昌徳宮で逝去。(87歳)
遺体は夫の墓所、英園に合葬された。 障害者施設の功績で「韓国国民勲章」を受賞。
最後に
〇 日本の皇族として生まれ、朝鮮王朝最後の皇太子妃となり、さらに「韓国 障がい児の母」と数奇な運命をたどられた方子妃は、一人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかった」と述べている。日韓の架け橋になろうと15歳の時の決意のままに、その後の72年間を生き抜かれた。
〇 1960年代には、誰もがしなかった身体障害者事業を始めた。
〇 日本の皇族出身の身分で奉仕活動を真心から率先して行ったことは、韓国国民に対する日本女性のイメージを良くし、厳しい日韓関係を和らげる役割を果たした。
〇 妃殿下が奉仕活動をすることによって、上流社会の人たちがボランティアをするようになった。そうした伝統をつくったボランティアの先駆者であった。
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『日本皇室の一人として生まれ、激動の生涯を生き抜き、最後には一韓国人として 死んでいった方子の人生は、後の世に生きる日本人・韓国人の双方に多くの示唆を 与えてくれている。』