内 容 : 「行基」~民の救済にすべてをかけ、文殊菩薩の再来と言われた名僧・行基
講 師 : 日本ペンクラブ 理事 岳 真也 氏
実施日 : 平成30年5月2日 1:30~3:30
場 所 : 狭山元気プラザ 大会議室
出席者 : 受講生53名(受講生数62名)
◆ 小説家、見て来たような嘘を書く……
第2回の講座は、上記の話から始まりました。「大法輪」誌に小説を連載されて3年が過ぎるそうです。定説とは学者の多数が言っていることで、その昔は権力者が決めたことが定説になることもあったとか。何が定説かは難しいが、定説が無い時は「万歳!」だそうです。「どういうふうにでも書ける」とのお話に思わずクスリ……。また、「虚実皮膜(嘘と本当は皮一枚である)」とも。作家は自分で多量の資料に目を通し、あらゆる角度から判断して「見て来たような嘘を書く」とおっしゃる。
◆大逆転!乞食坊主から大僧正へ
さて、本日の本題へ。日本人の過半までが渡来人であったという話から、その文化や技術を学んでいった当時の日本。そんな時代の中で、王仁を遠祖とし、蜂田の母、高志の父のもとに長子として生まれた行基。15歳で得度を受け、出家し法行と称しました。その後、飛鳥で道昭、役行者を師として修行しました。十数年の謎の修業時代があり、山林修行と勉学に励んだようです。山の道を経て、関東、東北へも足を延ばしたと言われていますが、その逆に行基は関西を出たことが無いという説もあります。全国各地には行基由来の開基を謳う寺が多数あります。近くでは鴻巣市の法要寺に行基が彫ったものと言われている大日如来があり、高尾山や杉本寺と関係があるとの説も……。
なにはともあれ、そんな修行時代を経て、民の救済こそが真の仏道と悟った行基は、広く仏の教えを説き、人々より篤く崇敬されました。しだいに行基集団を形成し、寺院(49院)、道路、橋、そして、朝廷の禁を破り民衆や豪族といった階層を問わない困窮者のための布施屋9所を設立するなど数々の社会事業を成し遂げました。朝廷からはたびたび弾圧され、「小僧(一番卑しい僧)」との蔑称まで付けられましたが、民衆の圧倒的な支持を得ます。その後、天災や疫病、争乱等の社会不安から総国分寺としての東大寺建立の際、聖武天皇から勧進役を依頼されます。こうして、「小僧」から「大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)」への大逆転が成し遂げられました。行基は奈良の大仏造立の功績により、東大寺の「四聖」の一人に数えられています。81歳で入滅し、その後東大寺大仏の開眼が行われました。
◆ 質問タイム
今回の質問タイムでも、「山林修行と山岳信仰の違いは?」「東大寺と後継問題との間の関係は?」「当時の民衆に大仏を建てるほどの財力の余裕があったのか」等々、たくさん出されました。財力については、行基が地方の役人や豪族の支持も得ていたので、その辺からの寄進もあったのではないかとのことでした。
◆ 受講生の感想
今回の感想には、「行基の事もさることながら、小説家としての岳先生の立ち位置分かったような気がしました。歴史学者ではなく、小説家としての面白い発見でした」「行基について、名前を知っているだけでしたが、本日の講座で大変興味を持ちました。色々と調べてみたいと思います」「質問した方が良く知ってらっしゃるので素晴らしいと思いました」「次回も面白い話をお聞きしたい。脱線した話も」等々があり、講義から興味を惹かれて更に学習意欲を刺激されている様子がうかがえました。