第1回 史跡・文化財めぐり「柏原地区」
実施日:令和5年5月11日(木) 8時20分集合~12時35分現地解散0
天 候:晴れのち小雨 18度 (※途中から小雨が降りだしましたが、無事に終了出来ました)
地 区:柏原地区 コース距離 約5㎞
コース:狭山市駅西口広場(集合)柏原ニュータウン行バス→柏原東バス停下車…城山砦跡…常楽寺…長源寺…宮原遺跡…上宿の庚申塔…永代寺…柏原公民館(休憩)…柏原白鬚神社…西浄寺…円光寺…大山灯籠と大六天(現地解散)…柏原南バス停→狭山市駅西口参加者:髙橋先生 受講生21名 スッタフ5名 狭山歴史ガイドの会5名 総勢32名
◇はじめに
本日より、コロナ禍により中断をしていた校外学習「史跡・文化財めぐり」が4年ぶりに再開されました。改めて郷土に受け継がれてきた史跡・文化財の魅力をご紹介します。本年度は、誰でも自由に見学できる貴重な史跡や社寺・石仏等を校外学習6地区に分けてご紹介します。
◇今回訪れた「柏原地区」の特徴
入間川左岸にある柏原地区は、縄文時代から集落の適地であり遺跡の多い地域です。また、良質な砂鉄を原料とした鍛冶師や鋳物師による武器や仏具の生産地であり、吾妻鏡に載る武将柏原太郎の居館と思われる城山砦があります。このコースには由緒ある社寺や興味深い石仏等がありますが、今回はその中で、市内唯一の中世城郭「城山砦跡」と境内や道端でひっそりと佇み、普段見過ごしがちとなる石仏2点「上宿の庚申塔」「六斎念仏供養塔」をご紹介します。
ϴϴ ご紹介スポット① 城山砦跡 所在地:狭山市柏原2376他
新緑に包まれたここ城山砦跡は、中世末期、戦国時代の遺構であり深い堀と高い土塁が往時の姿を留めています。現存する面積は約1万㎡で、昭和48年(1973)に狭山市指定文化財・史跡に指定されました。この場所は入間川の流れに迫り出した台地上にあり、沖積面から10mほど高い河岸段丘上にあって標高は約50mです。ここは大変眺望が良く、南の方向に入間川宿、鎌倉街道上道の入間川の渡し、東の方向に川越を見渡すことができます。軍事的に重要な立地条件を備えたこの城山砦跡には、足利氏、山内上杉氏、小田原北条氏など多くの兵どもの戦の跡が刻まれています。
ϴϴ ご紹介スポット② 柏原地区の石仏2点
★ 上宿の庚申塔 所在地:狭山市柏原1084付近
この上宿に建つ浮彫立像の庚申塔は、享保13年(1728)に柏原村の金子六左衛門他9名の庚申講中と常楽寺によって、五穀豊穣や二世安楽、そして塞(ふさ)ぎとしての無病息災や悪疫退散を願って建てられたものと推察されます。正面上部には日月と瑞雲、その下に一面六臂の青面金剛が邪鬼を踏まえた姿で刻まれています。また、その下には3匹の猿と2羽の鶏が刻まれています。
★ 六斎念仏供養塔(地蔵菩薩) 所在地:狭山市柏原1027(円光寺境内)
この供養塔の主尊は丸彫半跏趺座像の地蔵菩薩です。六斎念仏とは、毎月6日ある斎日に仏教上の八斎戒を守って身を慎み、念仏を唱えるものです。この供養塔は六斎日講中により寛延2年(1749)に建てられました。主尊であるお地蔵さまが頬杖をつくように右手で耳を覆う姿をしているため、「耳のお地蔵さま」と呼ばれるようになり、耳の病に霊験があるといわれています。
◇おわりに
本日は、後半の西浄寺あたりから小雨になり雨脚が心配されましたが、最終場所の大山灯籠と大六天を見学後、無事現地解散となりました。受講生の皆さんは初めての校外学習で気疲れもあったかと思いますが、全ての見学場所を予定通り巡ることができました。各見学場所では狭山歴史ガイドの会の分かり易い説明と髙橋講師の補完説明が行われ、郷土に残る史跡・文化財の魅力を再発見できたのではないでしょうか。次回は「入曽地区」の史跡・文化財めぐりです。お楽しみに……。
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◇ 第1回「史跡・文化財めぐり(校外学習)」に参加して ◇
機関誌・広報担当 1班 中野 敏夫
令和5年5月11日、第1回の校外学習として柏原地区の、主に文化財を中心とした10か所の寺院、遺跡を巡った。今回の校外学習は、前2回の講義に続く3回目であり、前2回の講義が縄文時代までであったので、特に宮原遺跡を中心に感想を述べたい。
宮原遺跡は柏原の長源寺の裏手にあり、現在は畑地となっている。狭山市史によれば、縄文時代後期の遺跡とされているが、現在まで未発掘のため詳細は不明だそうだ。ただ、表面採集調査により、おびただしい土器片とともに石錘なども発見されており、漁労活動の様子もうかがえるという。
狭山市史では、縄文遺跡の数を時期別にみると、草創期2、早期3、前期19となり、さらに中期には37と最も多くの数に増えるが、次の後期になると16と急減し、晩期にはゼロとなっている。そして、縄文後期になると入間川左岸から少し離れ、智光山公園付近を水源とする小支谷の近くに移動しているようだ。縄文中期は最も温暖化が進んだ時代だが、後期に入って少しずつ寒冷化が進むと、入間川のような大きな河川では洪水も頻発し、また、流れも変化するなど、水の確保に困難を極めたのであろう。
新しい集落に移るには、雑木林を切り開き、穴を掘り、カヤなどを集めてくる必要がある。最低限30~40人ほどの人数が必要だ。また、それらの人たちが一つの事業に従事するためにはリーダーとなる人が必須であり、ルールや掟といったものも必要だろう。食料や水の確保はもちろんの事、調理の仕方や衣服の製造、メンテナンスなど、あらゆる日常生活において役割分担がなされていたものと思う。同時に、そこには私たちと同じような喜怒哀楽の日常もあったに違いない。
ところで、青森県の三内丸山遺跡では、ゴミ捨て場跡から魚の骨の他、大量の果実の種が見つかっている。三内丸山遺跡は海にも近いことから、魚に塩をつけて食べたり、時には果実酒を吞んだりしていたと聞く。大きな集会所の跡も見つかっており、古代の人たちも私たちと同様に酒を酌み交わしながら、日ごろのうっ憤を晴らしていたようである。
はたして、わが街狭山での先人たちの生活はどのようなものだったのだろうか。必ずしも生きるために汲々としていたばかりではなかろう。今後、宮原遺跡が本格的に調査され、意外にも豊かだった人々の生活が明らかになる時が来るかもしれない。
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