近藤勇&土方歳三
~ ハンサムな土方より、まめな近藤の方がモテた? ~
講 師 : 日本ペンクラブ 理事 岳 真也
実施日 : 平成30年9月12日(水)1:30~3:30
場 所 : 狭山元気プラザ 大会議室
出席者 : 受講生 61名(受講生数62名)
仏の近藤、鬼の土方
新選組トップの局長・近藤は面倒見がよく、心優しく、度量の広い人物でした。女性にマメな近藤は女性達に大モテで、京では美人姉妹の双方を愛したといわれています。それに対し、副長・土方は物静かで仇役、悪役を引き受けていましたが、短歌や俳句を好む文化人でもありました。また、土方には江戸に美人の恋人「お琴」がいましたが、京都では玄人女性に人気があったようです。地元の仲間にモテ自慢をするために、彼を慕う芸者・舞妓からの恋文を山ほど送ったといいます。「男は顔じゃない」と先生は言います。もっとも、若い頃は、「男は顔だ」と思っていたそうですが……。
幕末最強の武闘派組織「新選組」
1834年、近藤勇は武州多摩郡上石原村(現調布市)の宮川家に生まれ、土方歳三は翌年、同郡石田村(現日野市)の土方家に生まれます。二人は、近藤が天然理心流「試衛館」の近藤周助の養子に入り、剣術の腕を磨いていたころ知り合い、土方も同館に入門しました。1863年2月、京へ向かう将軍家茂警護のための浪士組募集に、近藤や土方ら試衛館の8人が参加、中山道を通り上洛しました。しかし3月、意見の違いから浪士組は江戸帰還派と京都残留派に分かれ、京に残った近藤たちは壬生浪士組を名乗りました。その後活躍が認められ、京都守護職の松平容保から新選組の名を賜りました。新選組は厳しい隊の規約「局中法度」を掲げ、一糸乱れぬ団結力を誇りました。9月には粛清の名のもと芹沢鴨らを暗殺し、近藤主導の新体制が構築されます。
新選組の名を世に轟かせたのが、池田屋事件です。1864年6月、尊王攘夷派のクーデター計画を察知した新選組は、京都河原町三条の池田屋で密会していた浪士達を壊滅させます。その時土方は別動隊を率いて周りを固め、後から駆けつけた会津藩、桑名班の兵を池田屋に入れず、新選組の手柄を守りました。これにより新選組は、朝廷と幕府から破格の褒賞金を賜り、その後幕臣となりました。
1867年3月、近藤は、高台寺党を結成した伊東甲子太郎を暗殺、党員も斬殺します(油小路の変)。同年6月には、新選組隊士は幕府直参になりましたが、10月に将軍徳川慶喜が大政を奉還し、12月には王政復古の大号令により将軍職は廃止になりました。しかし、高台寺党の残党から恨みを受けていた近藤は、伏見の墨染で右肩を狙撃され、療養のため土方に仕事を託して大坂城に入ります。1868年正月3日、旧幕府軍と新政府軍との間で始まった鳥羽伏見の戦いで、土方指揮の新選組は敗れてしまいます。
江戸へ帰還した近藤らに、幕府は甲斐国の鎮撫を命じました。新選組は「甲陽鎮撫隊」と改名し甲府へ向かいますが、勝沼で板垣退助率いる新政府軍に大敗を喫し、甲府百万石拝領の夢はかないませんでした。会津での再起を図る近藤たちは、下総国流山(現流山市)の本陣で新政府軍に包囲されます。近藤は「大久保大和」と名を偽り投降しましたが、正体を見破られ、斬首されました。享年35でした。
土方は、近藤の死を無駄にしないため、最後まで戦い抜くことを決意。しかし、宇都宮で足に銃弾が当たり、大怪我をします。会津での療養後復帰しますが、戦局は不利になり、仙台から蝦夷地(北海道)に渡ります。1868年10月、土方らは箱館(現函館市)の五稜郭に入城し、「蝦夷共和国」を樹立します。連戦連勝の名指揮官ぶりを発揮しますが、翌年、新政府軍の「箱館総攻撃」で腹部に銃弾を受け、華々しく散りました。享年35。遺体は五稜郭に運ばれ、埋葬されたといわれています。5年後、生き残った永倉新八らは、板橋に新選組隊士の供養墓「近藤勇宜昌・土方歳三義豊之墓」を立てました。そして現在も、彼らの墓碑に香華が絶えることはありません。
先生はさらに続けます。多摩地区から八王子にかけての人々は幕府の恩恵を受けていたので、近藤と土方ら新選組は、「誠」をもって幕府を守る憂国の志士となりました。それが、大政奉還、王政復古となり、まさに逆転。その頃、やりたい放題の明治新政府は「悪者」を必要としていました。それが、新選組であり、天下の極悪人として斬首された近藤勇です。明治政府のやったことは果たして正しかったのかという疑問が残ります。幕末最強の武闘派組織「新選組」は、戦後になって民衆に受け入れられるようになりました。これもまた、逆転。今後さらなる逆転がある可能性も……と先生は結びました。
質問タイム
「鳥羽伏見の戦いの時、ガタガタと崩れていったがそんなになるものなのか。孝明天皇が亡くなった時、本当なのかとの疑問は抱かれなかったのか」「新選組の中に日本人の精神性を見る。義を貫いた。それがないと単なる暴力集団に終わってしまうと思うが……」「新選組は何故組長ではなく局長というのか」等々の質問が出されました。先生からは「大木が折れる時は単純だ。相手は近代式火器を持っていた。そういうものが出て来ることによって、すべてがドミノ倒しのように幕府軍に不利に働いていってしまったのだと思う。また、尊王攘夷というが、戦っている個々の兵士は天皇の顔を見たこともない。兵士が本当に天皇陛下を奉っていたのかは疑問だと思う。また、呼称は現在の政党も委員長だったり、総裁だったり、代表だったりいろいろなので、同じようなものではないか」とのお答えがありました。
受講生の感想
受講生からは、「時代の中で生き生きと生きた若者の情熱がほとばしった幕末の空気を感じました。土方には生きて明治の世に活躍して欲しかったと思う」「道徳教育と言われるが、日本人の心を病んでいるのは何処から来たのだろうと、時々考えてしまう。武士道の精神を今の日本に取り戻す手段はあるでしょうか」「明治維新はどうして下級武士が活躍できたのか今も不思議に思う。藩主たちがどうして抑えられなかったのか」との感想が寄せられました。
(文:スタッフ権田・高橋 )