写真・編集:狭山の歴史講座スタッフ 遠藤 猛
平成27年10月15日(木)。「狭山の歴史講座」の野外活動として堀兼地区の史跡・文化財めぐりが実施されました。
当日は雲一つない晴天で、髙橋先生、受講生27名、スッタフ5名、狭山歴史ガイドの会(ガイド説明の支援)8名の総勢41名が参加しました。
狭山市駅東口広場(8時30分)と狭山台南バス停(8時40分)に集合し、各コースをめぐり12時15分に堀兼の光英寺で現地解散しました。
行程は、狭山市駅東口広場→狭山台南バス停→下新田の共同墓地→権現橋袂の石仏群→堀兼神社→堀兼・上赤坂公園(休憩)→上赤坂の石仏群→堀兼の新田→光英寺→現地解散。コースの距離は約6.5㎞でした。
■下新田の共同墓地
・普門品読誦供養塔(ふもんぼんどくじゅくようとう)
この供養塔は明治3年(1870)2月に建てられた比較的新しいもので、普門品読誦供養塔といい、正面に「普門品供養」と刻まれているように、観世音菩薩普門品、一般に観音経という経典を一定回数唱えた記念として建てられた文字塔です。
この供養塔の台座の右側面には「右 扇町屋」、左側面には「左 三ヶ島八王子道」とあるように、道しるべも兼ねています。
■権現橋袂の石仏群
・権現橋の由来については、橋のたもとに子ノ権現が祀られているところから権現橋といわれ、その下を流れている川は不老川で、昔は「としとらずがわ」といわれました。権現橋下流の直線部分は伊豆堀と呼ばれ松平伊豆守が堀兼新田開発を行ったときに、河川の改修も同時に行ったためです。
・向かって右から2番目が橋の名前の由来となった子大権現の文字塔で、文政(ぶんせい)5年(1822)11月に堀兼村の人々により建てられたもので、正面に「子大権現」と刻まれています。飯能市の子の権現とかかわりを持ち、足の病に霊験あらたかと伝えられています。
■堀兼神社
・当神社は江戸時代まで浅間宮と呼ばれていましたが、明治初期の神仏分離令の関係で神社であることを強調するため、明治4年(1871)に浅間神社と改名され、近郷の鎮守として郷社となり、翌年村社に改められました。その後、近郷の小さな神社が次々と合祀され、明治42年(1909)に堀兼神社と再度改められ現在に至っています。
・随身門及び二神像 随身門とは左右に衣冠束帯で武器を携えた神像が安置されている神社の門のことで、神域と俗世界の境界に建てられています。
・この堀兼之井は昭和36年(1961)9月1日に埼玉県指定文化財・旧跡に指定されました。
堀兼之井は日本武尊が東征のおり、水がなくて苦しむ住民を救うため富士山を拝んで掘ったものと伝えられています。石の欄干をめぐらした直径7.2m、深さ1.9mの井戸の中央には石組みの井桁があり、現在は大部分が埋まっていて、かつてはどのような姿であったかは不明です。
■上赤坂の石仏群
・この弁財天が建てられているところは狭山市上赤坂で、必ずしも水には恵まれていない地区です。そこで田畑の養い水を与えてくれる水神のうち、もっとも知られている弁財天を建てたのかもしれません。
この弁財天は、建てられたのは元禄13年(1700)11月です。頭に鳥居を戴き、右手に宝剣(現在は欠けてない)、左手に宝珠を持つ姿に造られ、台座には波を切って走る帆掛舟が刻まれています。
■堀兼新田
・土地が広く整然と区画されているこの周辺一帯が「堀兼の新田」で、堀兼村は江戸時代前期に開発されて誕生した新田村です。
新田開発に着手したのは慶安2年(1649)で、開発を命じた人は川越藩主で当時老中であった松平伊豆守信綱でした。新田の特徴は、土地区画が整然としていることです。
入植者に与えられた土地は、間口が約20間(約36m)・奥行き約460間(830m)の長方形の土地で、面積は1戸当たりおよそ3町歩(3ha)と広大でした。こうして今見ても整然と区画された長方形の土地の形は開発当時からの姿です。
■光英寺
・当寺は堀金山山王院光英寺といい、宗派は真言宗豊山派で、本尊は木造大日如来坐像です。
創建については、数度の火災により古記録を失っていて不明です。
・念仏弐億万遍供養塔は享保12年(1727)2月に建てられたものです。正面に阿弥陀三尊の種子と銘文が彫られ、堀兼村の村民911人が南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)を2億万回唱えた記念に建てたことが分かります。
その回数が2億万回と刻まれていますので、長い年月をかけて達成されたことが分かります。