1.所沢キャンパスのシンボル…大隈重信胸像
100号館の前を通り学生食堂に向かう途中、上り坂の右側、ちょっと奥まったところにそれは鎮座している。 その隣には早稲田大学の原点ともいえる「早稲田大学教旨」が刻まれた石碑が建っています。長年の「いきがい講座」の思い出のアルバムのなかには、この早稲田大学の創立者である、大隈 重信公の胸像を背景にした集合写真が必ずあります。
早稲田大学のHPをみると、大学の前身が1882(明治15)年10月21日に創設された「東京専門学校」ですが、重信公の別邸が東京府南豊島郡早稲田村に、校舎が同郡戸塚村にあったことから、1892年頃には、専門学校の別名として「早稲田学校」と呼ばれるようになりました。専門学校から大学への昇格を機に、以後1902年9月2日付で「早稲田大学」と改称されたそうです。
2.講座風景
6月13日(土)第10回講座のテーマは「コミュニティへの関わり方」:講師は、東京国際大学 高田 知和教授
1) コミュニティとは、
古い日本の「村社会」から終戦を経て復興し「高度経済成長期」では、農村部から都市部への人口移動が起こり、昭和40年代にはそれが定着、新たな共同体として安定した。海外で使われていた「コミュニティ」を、昭和44年に総務庁国民生活審議会で報告書「コミュニティ-生活の場における人間性の回復」が出されて以来、日本でも広く使われ始めたそうです。
2) コミュニティの進展
阪神・淡路大震災や東日本大震災など災害を体験したことで、単なる町内会・自治会からそれに備える「防災コミュニティ」などに進化している。更に少子高齢化に対応する「見守り隊」など、「NPO法人○○○」等と、テーマ・コミュニティが多く生まれている。単に、住民同士が知り合い親しく仲良しになるだけでは無く、公共的領域の問題処理を担うシステム内部に住民参画を実現し、それによって住民自治の拡大を目指していくことが最重要の様です。それと現状と10年後とかの近い将来、自分も含めてどう変化するのかを推定し、打つべき対策があれば早く行動する必要がある。
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3.ひとことカード
今日は16件有りました。抜粋して紹介します。
高田先生からは、1件ごとに回答を頂きました。
- 自治会活動を実際にしてみると、究極の必要性は公共的領域(ゴミ回収、公園掃除、防犯・防災)だと思いました。今後、高齢化社会が更に進み、自治会がどのように変わっていくのか心配でもあり興味も感じます。
⇒ ゴミ回収、公園の掃除、防犯・防災、いずれも日常的なものばかりですね。自治会活動にとっては、そうした日常性に関わる事が一番の課題だと私も思います。
- 「角栄団地」と同じ時代に誕生したニュータウンに在住しています。世帯交代にならず高齢化(オールドタウン)の中でも新しい息吹でNPOコミュニティ“ゆうあい”が設けられる時代となりました。自治会とのコミュニティが新しい地域を目指すことになるのでしょうか…。徳野貞雄氏の提唱する家族の姿を、我が家でも書きたくなりました。
⇒ 徳野貞雄氏の「T型集落点検」というのは、実は私はかなり端折って説明をしてしまいました。厳密には徳野氏は次のように書いています。
「集落内の農家の現状がどうなっているのかを、同居者のみならず他出者も含めて年齢や職業、居住地やUターンの意志などを住民自身で確認しあう。模造紙とマジックがあればできる。
そして10年後どうなっているかも紙に描いてみる。正確でなくてよい。大学の先生や行政のための調査ではない。住民自身に役立良い。プライベートな問題も入るから大まかで良い。…T型集落点検は、欠陥も多くある。しかし、過疎化第4コーナーに差し掛かった農山村の非常に厳しい現実の中で、戸数の縮小も含めて集落の存続をはかっていくためには、有効な作業であると思っている」
(「農村社会の持続と定年農業」『農業と経済』第67巻第12号、平成13)
そして「集落点検」では次の項目に注意せよとも書いています。
☆人間の問題…・子どもの進路、・結婚・養子の問題、・ライフスタイルの問題、・老親の介護、・相続の問題
☆農地、農業の点検…・現在の担い手と経営面積、・10年後の担い手と経営面積、・農業の経営内容と面積、・農地荒廃の出る可能性、・相続問題を点検
- 地域社会への参加も年齢と共に欠席したいとだんだん考えていましたが、町内会・自治会不参加になると近隣住民との会話も薄れてきて、震災等の時に一番困ると思うのと共にコミュニティの重要性を感じた。
⇒ 前回配布したプリントの中で触れなかった部分が一番最後の神戸市長田区の事例です。
これは時間が余ったら説明しようと思っていたのですが、阪神淡路大震災当時に長田区のある地区では復興なども含めて非常に円滑に進んだということです。これは、地震があったから組織を作って、ということではなくて、平穏な頃から常にさまざまな活動をしていたために、急に地震が来た際にもどう対応するのか、組織はどう作るのかといったことへのノウハウの蓄積があったということを意味していました。ですので、平常時の活動が実はいかに大切かということだったと思います。