写真・編集:狭山の歴史講座スタッフ 遠藤 猛
平成27年6月11日(木)に「狭山の歴史講座」の野外活動として、峰・田中地区の史跡・文化財めぐりが実施されました。
当日は薄曇りで、髙橋先生、受講生33名、スッタフ5名、狭山歴史ガイドの会(ガイド説明の支援)8名の総勢47名が参加しました。狭山市駅東口に8時30分集合。12時30分に天岑寺で現地解散しました。
行程は、狭山市駅東口→市場の荒神さま→峰の愛宕神社・蚕影神社→西峰霊園→岩船地蔵堂→亀に乗る石碑と石経塔→田中の共同墓地→田中の稲荷神社→清水濱臣の墓→さやまケーブルテレビ(休憩)→天岑寺→現地解散。狭山市駅から天岑寺までの距離は約4.0㎞、天岑寺から新狭山駅まで約1.5㎞、グランド入口(狭山台)バス停まで約0.7㎞でした。
■市場の荒神(こうじん)さま
・当神社の正式な名称は、三柱(みはしら)神社といい、市場(入間川2丁目)の大野家が所有する神社です。地元の人は「市場の荒神さま」、または「荒神さま」と呼んでいます。
創建については不明ですが、古老の話では延享年間(1744~48)に加藤清正の末裔と称する加藤太郎左衛門が当地に移住したとき、三宝荒神(さんぽうこうじん)を祀ったと伝えられています。
祭神は、天地が開けたときに高天原(たかまがはら)に出現した天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)など3神です。
■峰の愛宕(あたご)神社と蚕影(こかげ)神社
・峰の愛宕神社は、伝承によると江戸初期に当地で440石(450石ともいわれる)を知行していた旗本小笠原太郎左衛門安勝が、守護神として勧請(かんじょう)したといわれています。
祭神は火産霊神(ほのむすびのかみ)など4神です。
・蚕影神社は、創建等については不明ですが、茨城県つくば市にある蚕影神社を勧請したものと推察されています。
祭神は稚産霊神(わかむすびのかみ)など3神です。
■西峰霊園の念仏供養塔
・西峰霊園は廃寺となった大日堂があった場所で、大日堂の創建などについては資料がなく不明です。
入口の左側にある念仏供養塔は文政7年(1824)4月の造立で、浮き彫立像の聖観世音菩薩が刻まれています。入間川村の枝村である峰村の念仏講中が現当二世安楽、極楽往生を願い建てたものです。市内に残る聖観音を主尊とする念仏供養塔は、この1基のみで貴重な存在です。
■岩船地蔵堂と薬師堂
・岩船地蔵堂の創建などについては資料がなく不明ですが、地蔵堂の中に享保4年(1719)9月に建てられた丸彫立像の岩船地蔵が安置されています。この地蔵菩薩は、田中村の人々が岩船地蔵信仰により岩船地蔵念仏供養として建てたもので、現当二世安楽、極楽往生を願ったものと思われます。
・薬師堂の創建などは不明です。昭和40年(1965)初めまで東峰霊園東側に薬師如来を祀った建物があり、地域住民の集会所として使用されていました。その建物が荒廃したため昭和43年(1968)に現在の場所へ新しくお堂を建てて、本尊だった薬師如来が移されました。
■亀に乗る石碑
・この石碑は、亀の台座に乗った「前総持指月和尚 行業記碑(ぜんそうじしげつおしょう こうぎょうきひ)」といいます。この石碑には江戸時代に当地で生まれた指月和尚が11歳で仏門に入り、明和6年(1769)12月に75歳で亡くなるまでの、業績や人生訓が石碑の4面にわたり約2300字で刻まれ、指月和尚の業績を後世に残すために建てられたものと思われます。建てられた時期と建てた人については不明です。亀の姿をした台座は亀趺(きふ)といい、長寿のシンボルとされる亀の甲羅に石碑を乗せることでその永続を願ったものと考えられます。
■田中の共同墓地のカンカン地蔵
・この墓地の奥に数体の地蔵菩薩が並んでいますが、一番左のなんとも痛々しい石仏が俗に「カンカン地蔵」と呼ばれている丸彫立像の地蔵菩薩で、宝永5年(1708)8月に建てられました。
この地蔵菩薩が頭や顔をはじめ、いたるところ穴ぼこだらけの痛ましい姿になったのは、目の悪い人は地蔵菩薩の目を、足や腰の悪い人は足や腰をという具合に、小石で叩きながら病の治るのを祈ったためです。小石でたたく音が「カンカン」と響きわたったため、「カンカン地蔵」と呼ばれるようになったそうです。
■田中の稲荷神社
・当神社が田中の稲荷神社と呼ばれ、創建の年代や由緒などは不明ですが、峰の愛宕神社と同様に小笠原家が奉納したものと思われます。小笠原家と関係があり、廃寺になった安穏寺(あんのんじ)の守護神として建立されたものと推察されています。祭神は、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)です。
■清水濱臣(はまおみ)の墓
・この墓地の向かって右から4基目の墓石が、清水濱臣の墓で狭山市指定文化財・史跡として昭和48年(1973)3月1日に指定されました。指定の理由は、江戸時代後期の高名な国学者・歌人の墓であること、父親が狭山の田中村の出身で、江戸移住前は当地で医者を業(なりわい)としていたことによります。
清水濱臣は安永5年(1776)に江戸で生まれた国学者で、文政7年(1824)に49歳で亡くなっています。
■天岑(てんしん)寺
・当寺は大龍山天岑寺といい、宗派は曹洞宗で、俗に沢の天岑寺と呼ばれています。本尊は木造宝冠釈迦如来坐像で、本寺は八王子市にある少林寺です。
文禄3年(1594)11月に天海盛呑(てんかいせいどん)により開山され、開基は江戸幕府旗本で当地を知行していた小笠原安勝です。天岑寺という寺名は、安勝の父安元の戒名である「天岑院殿紹恩居士(てんしんいんでんしょうおんこじ)」から命名したといわれています。
・この惣門(そうもん)は昭和48年(1973)3月1日に狭山市指定文化財・建造物に指定されました。惣門とは外構えの大きな門のことで、特に禅寺の表門をいいます。
惣門正面の扁額には通霄関(つうしょうかん)という文字が刻まれており、天に通じるという意味です。
・旗本小笠原家墓所、は平成18年(2006)12月1日に狭山市指定文化財・史跡として指定されました。
小笠原家は天正18年(1590)の徳川家康関東入国に従って、三河国幡豆(はず)郡(愛知県東部)から武蔵国入間郡に来たものです。初代が小笠原安勝で、狭山周辺(田中、峰、沢)に知行地440石(450石ともいう、後に1190石に加増)を賜った旗本です。墓所には、12代にわたる当主やその妻、兄弟、子供などの墓石があり、初代の父と初代の2基の墓石を中心に整然と「コ」の字型に並んでいます。