字源が異なる平仮名を読み書きする
日時:令和5年12月4日(月)
講師:権田恒夫氏
初等教育が行われた手習塾
庶民の初等教育を担っていた教育施設が「手習塾」です。『狭山市史』には「市域において手習塾が21か所に及び、市全体に及んでいることが解かりました。設立はいずれも幕末期で、「天保期(1840~1843)が最も早い」と記載されています。道路沿いや墓地に、教え子たちが建てた、「筆子中」「門人中」「門生中」「筆塚」と刻まれた顕彰碑が建っています。そして、その総数は、61基(入間川村7基、北入曽村7基、南入曽村1基、水野村4基、堀金村(現・堀兼)9基、上赤坂村9基、中新田村2基、加佐志村1基、青柳村2基、下奥富村4基、上奥富村1基、柏原村1基、上広瀬村5基、笹井村8基)を数えます。
江戸中期の教育
江戸中期になると農業生産力が向上し、商品の生産流通が盛んになると、庶民も基本的な学習である「読み(読書)・書き(習字)・算盤(そろばん)」を学ぶようになりました。師匠は教養のある人がなり、教室は先生の自宅の一室が利用されました。在学する期間は平均5年くらいで、一つの教室で学びました。学習内容は社会生活で実際に役立つ実学で、子供たちは「いろは」から習い始め、御家流書体の「候文」の読み書きに発展します。学習は文字教育が中心で、日課の大部分は習字の練習でした。習字を通して読むこと・書くことを覚え、知識を習得していきました。学習の進度は一人一人異なり、師匠が各自に課題を与えて助言・指導した個別指導で、筆子は思い思いの時間に出席し、終了時間もまちまちでした。
悪い子供には居残りや退学処分がありました。筆子は師匠を尊敬し、お互いの信頼関係で人格教育が徹底されました。時には、試験「浚 さらい」がありました。毎月末に実施する小浚のほかに七月に行われる中浚、年末の大浚がありました。また、「席書」と呼ばれる発表会を年に2回ほど実施していました。手本や教科書の暗書や暗読で見事な子供には、筆墨や半紙、往来物などの褒美が与えられました。1年を通じて様々な行事がありました。年頭に「書き初め」を初めとして天神講・「師匠の花見」・七夕祭りなどです。そして、十分の一程度は私塾に入り、専門的な知識を得て、漢文を読みこなし、漢詩を嗜み、和歌や俳諧を楽しみました。
教科書は、『実語教』や『童子教』『六諭衍義大意』『孝経』『女大学』などを使用していました。「いろは歌」から習い始め、「名頭字」で姓名を、「江戸方角」で地理や地名を、「消息往来」で書簡や案内書を学びました。「幼年往来」では、孔子が『論語』で説いた「仁・義・礼・智・信」を学びました。仁とは学ぶ心、信とは信頼・信じる心、礼とは礼儀・礼節・親を敬う心、智とは学ぶ心で、その中心は仁です。
当時は、男性は文書を漢字と仮名交じりの候文で書き表しましたが、女性は平仮名で流麗な和文を書くことが一般的でした。
古文書解読
「いろは覚」天保十四年(1843)七月武蔵国埼玉郡上平野村(現・埼玉県蓮田市上平野)篠崎家文書
(表紙)「篠崎元次郎壱 いろは覚」
(奥書)「天保十四年(1843)癸卯歳七月吉日 武州埼玉郡 元上平野村 篠崎姓ちか」
いろはに/ほへと/ちりぬる/おわか/よたれそ/つねな/らむうゐ/のをくやまけふ/こえて/あさきゆ/めみし/ゑひもせ/すきやう
「中 浚」文久三年(1863) 武蔵国荏原郡太子堂村(現・東京都世田谷区) 森家文書
(表紙)「天保十二丑年七月吉日 改中浚 違字三 脱字五 中邑美代吉」
見事/庭もせに/野山の草/木掘うつし/しけりあ/ひたるさま/さまは春くるからに/青柳のの/はへ二ふと
「幼年往来」文久三年(1863) 武蔵国荏原郡太子堂村(現・東京都世田谷区)森家文書
両親とは父母/親の兄弟を伯父/叔母といふ一家/一名祖父祖母母姉/妹甥姪娘婿孫親類縁者師匠/先生弟子主家/来下女下男奉/公人職人日雇/人足軽子大工左/官屋杣葺手伝/車力釘手間賃
(奥書)「内 隠士 萩原帰耕書印 時文久三癸亥年仲/秋日於下北沢閑居試筆」
あとがき
過去と現在を学ぶことは、未来を語る上で大事です。不正確な情報と過度の偏見から脱却し、正確で新しい情報(一級史料)を取り入れ、歴史に触れたいと思います。この講座を通して、古文書の楽しさを知っていただけたら、こんなにうれしいことはありません。
≪主な参考文献≫
・渡辺尚志著『百姓たちの江戸時代』
・八鍬友弘著『読み書きの日本史』
・森康彦監修『古文書への招待』
・日本放送協会編『古文書を読んでみよう』
・菅井則子 桜井由幾共著『入門 古文書を楽しむ』
・高木聖雨ほか著『文部科学省検定 書Ⅰ』