江戸時代の狭山を支配した領主達
~徳川家康に仕えた旗本小笠原家~
日 時:7月26日(水)13:30~15:30
講 師:さやま市民大学同窓会歴史クラブ 井口 孝之 氏
受講生:出席14名(欠席2名)
講師の井口孝之氏は、さやま市民大学同窓会歴史クラブ(通称:歴史クラブ)の会長として、狭山の歴史を調査研究しています。また、博物館の常設展示ガイドツアー時にはガイドとなって、説明役を努めています。今回は、家康に仕えた旗本小笠原家について講義をお願いしました。
狭山市の主な旗本領主
寛政期に於いては、旗本は全部で5,100人ですが、3,000石以上では254人(5%)、2,000石以上では414人(8.1%)、1,000石以上は835人(16.4%)という状況でした。
狭山市にゆかりの旗本16人は、笹井村、根岸村、入間川村、北入曽村、青柳村他に知行(領地)を得ていました。その中で、小笠原家は代表的な旗本で、沢・田中・峰村に知行440石を得て、田中村に陣屋を置きました。沢にある天岑寺の開祖です。土屋氏(昌吉)は笹井村に410石を得て、宗源寺の開基です。田村氏は入間川村に150石を得て、「坂上田村麻呂の子孫」と言われていまう。小幡氏は青柳村地域に140石を得て、「甲陽軍艦」著者である軍学者を輩出しています。各旗本は狭山以外にも知行を得ていたので、石高は上記より多くなります。
小笠原家の系譜
小笠原家は清和源氏の流れで、森羅三郎源義光(八幡太郎源義家の弟)を祖とする甲斐信濃源氏の系統です。義光より数えて4代目の長清が、甲斐国中巨摩郡小笠原村に居を構え、小笠原姓を名乗りました。長清から伴野小笠原家、幡豆小笠原家などに分かれ、狭山の小笠原家は三河の幡豆小笠原家の安元から分かれた安勝が元となり安村、安光、廣員へと続き、明治になり廣直、廣俊、静子と続きました。静子は他家に嫁いで小笠原家を廃家し、安勝から続く347年の歴史を閉じました。
「重修諸家譜」(江戸幕府が寛政・文化年間に編纂した武家の系図)には、武家の家系と人物の業績が記録されており、安元の三河幡豆越小笠原家は今川家に属した後に、徳川家康に従ったこと。安元の三男安勝は、東照宮に仕えて近侍を努め、遠江掛川城や近江国小谷や三河国長久手の戦いで成果を挙げたことで、天正18年関東入国時に入間郡に采地(知行)450石を賜ったこと、天岑寺(15石を寄付)を開いたことなどが記されています。
なお、国会図書館デジタルコレクションを利用すると、「寛政重修諸家譜・国民図書版」(明治時代に作成)を閲覧することができます。
小笠原家の遺産
① 天岑寺(狭山市指定文化財・史跡)
天岑寺は、徳川家康の関東入国に伴い、田中、峯、沢 地区を知行した旗本小笠原家の安勝 (小笠原太郎左衛門安勝)が、父安元の菩提を弔うため、文禄3年(1594)に開基し、道元禅師から17世の天海成呑が開山したと、いわれています。寺号は安元の法名、天岑院殿紹恩居士から天岑寺と命名されました。本尊は釈迦如来です。なお、本堂、庫裏、鐘楼等は明治3年の大火で全焼。
② 惣門(狭山市指定文化財・建造物)
惣門は、創建当時の面影をとどめる唯一の建物です。沖縄風の様式が漂う総ケヤキ造りの四脚門で、屋根は瓦葺切妻、中央は一段高く「通霄間(つうしょうかん)」の扁額が飾られています。門の裏は表と造りが異なり、唐破風のような造りで、貴重で珍しい門です。
③ 結界石
結界石は、「不許葷酒入山門」(「酒の匂いがする人は入山を許可しない」の意味)と書かれた石塔です。明和元年(1764)、中山道の増助郷に反対する農民が蜂起した際、街道沿いの村々で打ち壊しが発生し、豪商綿貫家もその対象になりましたが、綿貫家は諸帳簿、貴重品等を天岑寺に避難させました。そのお礼として結界石を寄進したのです。
綿貫家は「西の鴻池、東の綿貫家」と言われるほどの江戸の豪商で、金融業を営み、老中酒井雅楽頭、大岡越前守他300名近い諸大名、旗本、資本家へ貸付をしており、徳川幕府の瓦解時に、総額6兆93億円余りが貸し倒れとなってしまいました。
④ 月待供養の碑(狭山市指定有形民俗文化財)
「月待」とは月の出を待つ行事で、夜に講員が特定の家屋に集まって飲食を共にし、さまざまな話し合いをしたといいます。月天祝いで延命長寿、無病息災を願って十三夜、二十三夜などがおこなわれたそうです。
小笠原家墓所は本堂の裏手にあり、狭山の小笠原家の歴代の当主や妻、子などが葬られています。 この墓所については、故佐藤芳子さん(当時、文化財保護委員)等が細かく調査した報告書が、狭山市立図書館に所蔵されています。是非、参考にしてください。
⑥ 「絹本着色釈迦涅槃図」(狭山市指定文化財・絵画)
徳林寺には小笠原家が寄贈した縦177.5㎝、横104㎝の大きな「絹本着色釈迦涅槃図」が所蔵されています。(右の涅槃図)
⑦ 田中稲荷神社
田中地区の稲荷神社は、愛宕神社と同じように小笠原家が、同家と関係の深い安穏寺(天岑寺僧侶の隠居所)の守護神を祀るために建立したと推測されています。
⑧ 峰の愛宕神社
峰地区の愛宕神社は、小笠原康勝の守護神として勧請したと言われており、屋根瓦には小笠原家の家紋の三階菱がついています。
いずれにしても、天岑寺や稲荷神社、愛宕神社は近くにあります。時間があれば是非訪れてください。天岑寺では、定期的に座禅会を開催しています。
質疑応答
問:陣屋に居住していた小笠原家の関係者はいましたか?
回答:小笠原家は江戸の警護を担当していました。靖国神社の付近の江戸屋敷に住んでおり、狭山にはいませんでした。ただし、菩提寺は天岑寺なので仏事の際には、狭山に来たでしょう。陣屋には代官がいました。
問:作法の小笠原流との関係があるか?
回答:小笠原家は流鏑馬(ヤブサメ)を奉納する役目でしたが、家訓として生業にしないとしていました。しかし昭和初期、生活するためには生業が必要と考えて、礼法としての小笠原流を確立しました。
問:明治初期、小笠原家は静岡県牧之原にいったと聞くが真実は?
回答:佐藤芳子さんが調べて分かったことでしたが、静岡県の牧之原を茶畑に開墾しています。徳川慶喜が大政奉還により静岡に隠居した際に、身辺警護をした多くの旗本が同行しました。牧之原のお寺に、小笠原家のお墓があります。
(補足:詳しく知りたい方へ)
故佐藤芳子さん(当時、文化財保護委員、狭山楽史会)等が調査研究してまとめた小笠原家についての資料が、図書館にあります。是非参考にしてください。
*「幡豆小笠原支流 天岑寺小笠原家墓石調査」、狭山楽史会研究報告、2006年
*「狭山市文化財調査報告書第27集『狭山の旗本小笠原家調査報告書』」、狭山市教育委員会、2007年
受講生感想
・自分の知識不足で難しく感じる部分もありましたが、質問の時間が多く、受講生の方々のお話と合わせて興味を持って聞くことができました。たくさんの資料と細やかな説明を有り難うございました。
・狭山にゆかりのある旗本小笠原家についてとても詳しくお教えいただき感謝しています。よく耳にする礼法の「小笠原流」の源流であるということや、小笠原諸島を発見したゆかりの家系だと聞いてあらためて驚きました。
・40年近く狭山市に住んでいるのに知らないことばかりで、とても勉強になりました。車で天岑寺の前を通るだけで訪れたことはないので、珍しい惣門を見に行きたいと思っています。田中稲荷神社の富士塚も知りませんでした。
・本当に有り難うございました。何も知らなかった私も少しは小笠原家のことを知れました。