狭山市ゆかりの文化人(1)
~近世・近代の教育に貢献した人~
日 時:6月26日(水)13:30~15:30
講 師:狭山市文化団体連合会 権田恒夫 氏
受講生:出席12名(欠席4名)
大河ドラマに登場する「徳川家康」の祖先の話から始まりました。「徳川」の前は「松平」(三河松平郷)、その前は「得川」であり、平安時代から鎌倉時代までさかのぼり、清和源氏の流れをくむ「新田氏」(上野国新田荘得川郷)の一族とか。確かな史料は見つかっていないようですが、それぞれの地元では話題になっているようです。
ところで、幕末期には、手習い塾(寺子屋)は狭山地域だけでも21か所(狭山市史によると、入間川村・北入曽村・南入曽村・上赤坂村・上広瀬村各1か所、青柳村・上奥富村・笹井村各2か所、下奥富村・柏原村各3か所、堀兼村4か所)、教え子が師匠の遺徳を偲んで建てた筆小塚の類は61基(入間川村7基、北入曽村7基、南入曽村1基、水野村4基、堀兼村9基、上赤坂村9基、中新田村2基、加佐志村1基、青柳村2基、下奥富村4基、上奥富村1基、柏原村1基、上広瀬村5基、笹井村8基)あります。教育に熱心は地域であったようです。
地域の教育に貢献した教育者
宮野隆範(1751~1810)
入間郡北入曽村出身。農家の出ながら幼少時より才能に恵まれ、30歳で川崎大師平間寺(厄除けの川崎大師)の主席となりました。38歳で平間寺33世に就任すると、第11代将軍徳川家斉を始め将軍家や御三家等の多くの人々が参詣するようになり、成田山金剛王院新勝寺(本尊は不動明王)や高尾山薬王院有喜寺(本尊は薬師如来・飯縄権現)と並ぶ智山派関東三山の一つとして繁栄しました。
田口保明(1804~1892)
入間郡北入曽村出身。18歳の時江戸の和学講談所に入学し、「塙保己一門下七人衆」の一人に数えられましたが、親の希望で帰郷し手習い塾を開き、「手習いのお師匠さん」と慕われています。明治6年には入曽学校を設立し、優秀な教え子を世に送り出し、郷土の発展に貢献しました。
保明は芸能にも関心があり、徳丸流神田囃子の演者を呼んで村民たちに伝授、入曽囃子(狭山市無形民俗文化財)として今も神社に奉納されています。
入間郡北入曽村出身。24歳で入間郡北野村広谷の豪農・沢田家に婿入りし、手習い塾件漢学塾「北広堂」を開きました。学制が発布されると前橋の教育伝習所に入学し、西洋式の授業法を学び「陝山学校(現・所沢市立小手指小学校)」「明治高等学校」の教員となって後進の指導にあたっています。1855年からの24年間には「門弟三千人」と言われ、「本県最大の寺子屋」と埼玉県教育史に記録されています。自ら教科書を清書し、版木を彫り、製本し、習字手本を作成しています。
入間郡藤沢村出身の政治家粕谷義三は弟子の一人でした。
大川義純(1831~1893)
入間郡上赤坂村出身。山林修行の後、父が開いた塾の師匠となりました。明治維新後、井上頼圀の神習舎に入り国学を学び、上赤坂に帰郷後は明倫学校(現・所沢市立富岡小学校)の訓導になっていますが、その後家業の茶業に従事することになります。なお、顕彰碑には上赤坂など11か村の子弟の名が刻まれています。
田口宗平(1833~1887)
入間郡北入曽村出身。田口保明の長男。江戸の和学講談所に入所しで国学、漢学を修めた後、父を助け塾の教育に尽力しました。その後、前橋の教育伝習所(現群馬大学教育学部)で教員免許状を取り入曽学校の教員となりました。没後には、教え子209人が業績をたたえ、「竹友田口君碑」を建てました。竹友は俳諧、和歌に心を寄せた宗平の雅号です。
清水崇徳は、高麗郡上広瀬村の名主を代々勤めた清水家の長男です。宗徳は幼少の頃から利発で学問を志し、梅沢敬典に師事して漢学と書道を修め、井上頼圀に国学と和歌を学んでいます。
学制発布以前に、広瀬村で郷学校「幼童学校」を設立、明治6年近郷近在に先駆け「広瀬学校」を開校しています。また、俳諧を学んで、「不朽軒義同」と号して、春秋庵を立机し、多くの弟子を養成しています。
埼玉県議会吟議員や帝国議会議員となる一方、事業家として器械式製糸工場「暢業者」を設立して広瀬の斜子織の品質向上に努めました。また、入間馬車鉄道や川越鉄道の敷設に尽力しました。
なお、広瀬神社大ケヤキ前に建立されている清水崇徳頌徳碑の撰文は井上頼圀です。
狭山市出身の教育者
清水浜臣(1776~1824)
清水浜臣の父は入間郡田中村の出身。江戸飯田町に移り、漢方医であり俳諧宗匠でした。浜臣は飯田町で生まれて、神田湯島の昌平坂学問所に入り、朱子学を学んでいます。17歳の時、村田春海に入門します。国学者として古学の研究を続け、多くの著作を手掛けました。彼は古典の考証と注釈に優れ、「万葉集考註」や「伊勢物語添註」など王朝的情趣の歌文を残しています。
浜臣は田中村に親戚があるので、度々訪問しています。川越周辺には弟子が多く、入間郡赤尾村に住む林信海の泊洦舎(さざなみのや)につながります。
浜臣は49歳の若くして亡くなり、天岑寺の隠居寺であった安穏寺に葬られました。
狭山市出身の教育者から学んだ人物
井上頼圀(1839~1914)
井上頼圀は、江戸神田東松下に生まれました。和歌を相川景見に、国学を平田鉄胤に、日本古暦道を権田直助に学びました。文部省と宮内省に出仕し、私塾「神習舎」で教えています。明治15年(1882)、松野勇雄と皇典講究所(現・国学院大学)を設立しました。
中島歌子(1844年~1903年)
中嶋歌子は入間郡森戸村に生まれました。江戸小石川(現・文京区春日)に移り、20代半ばに加藤千浪の門を叩き、歌道に専念、清水浜臣の弟子の一人でした。明治10年(1877)、歌塾「萩の舎(はぎのや)」を開くと、上流階級出身の夫人を中心に門弟千人と伝わっています。弟子の一人は樋口一葉です。
荻野吟子は武蔵国幡羅郡出身です。上京して身柄引受人の井上頼圀の「神習舎」に入門し、東京女子師範学校や私立医学校好寿院を卒業して、医術開業試験に合格し、我が国最初の正式な女医第1号となりました。また、女性解放運動の先駆者でした。
なお、埼玉県では、平成17年度から埼玉県萩野吟子賞を創設して、男女共同参画の貢献のあった個人や団体などに贈っています。
狭山市出身の名知仁子氏は「自立した社会を目指してミャンマーで活動を続ける医師」として、令和4年度埼玉県萩野吟子賞・大賞を受賞しました。
樋口一葉(1872~1896)
樋口一葉は、14歳で中島歌子の「萩の舎」に入門し、和歌や古典文学を学んでいます。入門半年で歌会60人中一番になるなど、若くして才能を発揮し、今に残る作品を多数発表しています。
荒幡知絵
広報さやまNo.815(2023.5)によると、狭山市出身の荒幡知絵さんは、令和4年度文部大臣優秀教員表彰を受賞しています。荒幡さんは平成14年に埼玉県の教員になり、平成29年入間川小学校に勤務。平成29年学校教育法の改定によって道徳教育の充実により、積極的に取り組んできたようです。道徳主任や学年主任を務めると、学校満足度が全校平均を大幅に上回ったことが評価されたと記されています。まさに、子供たちの未来を託せる情熱を持った若き先生です。
まとめ
最後に、講師権田さんから、「今回改めて教育者を探求し、ゆかりの地を訪ねて、生涯の生き様を学びました。これからも郷土の歴史に埋もれている先覚者について研究していきたいと」まとめられました。
質疑応答
受講生の崩し字についての質問に対して、「江戸時代は一般の百姓にとって読み書きは実学(実際の生活に役立つ学問)であったこと、当時の知識人にとって俳句や和歌は必須であることなので、漢字5000~10,000字を学びんで読み書きしていたと推測されるが、この数の漢字を使用するのは難しいと思う。」「今の時代に生まれて良かった」とも語られました。
受講生感想
・40年近く狭山に住んでいるのに、知らなかったことばかりでとても勉強になりました。これを機に、今日学んだ方々のことをもっと調べてみようと思いました。文京区本郷の文学散歩にも行きたくなりました。
・狭山に多くの国学者や教育者がいて、たくさんの優秀な人々が生み出されていっているのだと感心しました。
・江戸後期にしては、たくさんの狭山市関係の人が多く出ていることにビックリいたしました。
・古い時代の文化人のことが良く判りました。今の時代の狭山市ゆかりの文化人のことも知りたいと思いました。
・寺子屋(手習い)のころから受け継がれている教育が、多くの男女教育者につながって今に至っていることが感慨深いです。