新河岸街道と新河岸川船運
日 時:9月28日(水)13:30~15:30
講 師:狭山歴史クラブ 稲葉 末明 様
受講生:出席7名(欠席4名)
本日の講師稲葉末明さんは、「伊能測量を語り継ぐ会」会長でもあり、伊能忠敬の研究で知られている方です。17年かけて日本全国を測量し、国土の正確な姿を明らかにした伊能忠敬は、測量している間、一日も欠かさず日記を付けていました。天気や食事、宿のことなど、民俗学的にも面白い内容で、稲葉さんはその測量日記を研究しています。全28巻のうち10巻まで解読が完了したところだそうですが、残りも全部完了して皆さんの目に触れられるようにしたいと熱い思いを語っておられました。
新河岸川舟運
近世初期、陸上交通の整備発展と並んで年貢米のような大量物資輸送手段として舟運が本格的に発達しました。川越藩でも、1638年の川越大火で被災した東照宮の再建資材運搬のため、寺尾村五反田に臨時の荷揚場を設け新河岸川河岸場を開設しました。舟の形は俗にいう高瀬舟で、底平な舟脚をもち舳先が高くなっています。積み荷は、上りが肥料、塩、石、熱海温泉等で、下りが甘藷、川越素麺、八王子石灰、西川材などです。熱海温泉?……と不思議に思いましたが、明治の頃に豪商が買ったそうで、入間川町でも買った人がいるという記録があるそうです。運賃は冬場は夏の105~114%、上りは下りより25~45%高かったとのことでした。〆粕1俵の川越店着の運賃は舟賃が東京-新河岸間27~28里で5.0銭なのに対し、わずか1里足らずの新河岸ー川越間の駄賃が2.2銭で、舟賃が陸上交通の運賃と比較にならぬほど低廉だったことが、江戸中期以降の商品流通面に舟運の果たした役割の大きさを物語っています。
そんな舟運でしたが、明治中期の鉄道の敷設、特に武蔵野鉄道の開通により衰退し始め、大正10年から昭和5年の新河岸川改修事業で舟路が使用できなくなりました。さらに、大正12年の関東大震災では、新品で350円する船が中古で600円でも飛ぶように売れたので、新河岸川の川船は東京の船問屋に転売されていきました。その後、東上線の工事計画が知れるや業者は前途に見切りをつけ、新河岸川舟運は昭和6年を以てその役割を終えました。
新河岸街道
狭山市内を通る河岸道の主なものは以下の4つだそうです。豊富な写真資料で一つ一つ丁寧に説明していただきました。
新河岸越生道…今の県道8号線川越入間線。古くは越生・新河岸街道と呼ばれ、新河岸川舟運が発達した江戸時代は越生から山の産物が運ばれ、江戸からの商品が越生方面に運ばれたのであろう。現在は交通量が多く、古道という面影は薄い。
新河岸扇町屋道…唯一「河岸街道」と道路表記される河岸道。旭橋を挟んで川上を上新河岸、川下を下新河岸と云う。下新河岸の対岸が牛子河岸である。川越五河岸のひとつで、新河岸は1647年に開設され1693年以前に上下に分かれたという。
福岡扇町屋道…福岡河岸は「福岡名所図会」(天保8年)によれば「享保の頃、当村民、冨田紋右衛門といふ者此処ニ住、始めて此河岸を始めけるにより紋右衛門河岸と称しけるが、後に福岡河岸と伝ふ」とあり、安永期に既に三軒の船問屋が存在していた。(富士見市史研究会)
古市場三ヶ島道…古市場河岸の成立は詳しくはわからない。福岡河岸で回漕業を営んだ吉野家文書に「新タニ河岸ヲ取立」とあり従来の河岸場とは別に1748年以前に河岸が開設されたとも考えられる。(埼玉県教育委員会『新河岸川の水運』より)
質疑応答
「権現橋近くの庚申塔は移設されて反対側になり、道案内が違っているが……」との質問には同じ受講者から、「今の所、説明する時に道のこちら側に立っていたというより他ないのでは」といった意見が出されました。「河岸道と新河岸街道は別物?」という質問には、「新河岸川に出るのを新河岸街道と言ったり、新河岸河岸に出るのを新河岸街道と言ったりしていて、明快な区別は無いようだ」とのお答えでした。
受講生感想
❖ 詳しくご説明頂き、おぼろげな情報を更新できました。新河岸川舟運に、並舟、早船、急船、飛切があったこと、興味を持ちました。鉄道が開通して舟運が衰退した。新幹線が開通して在来線がすたれる、歴史は繰り替えすですね。リニアが開通すると、交通機関はどうなるのでしょうか?心配になりました。
❖ 狭山市に転居して、地元の人たちが新河岸街道といっていました。どこだろうと思っていました。本日、正式名称「古市場三ケ島道」であったと知りました。
❖ 以前、川越氷川神社裏の新河岸川河畔で観光舟運の船を見たことがあります。運航している季節ではなかったのですが、こんなボートのような船で物を運んでいるのだと思い込んでいました。今回高瀬舟だったということを知り、改めて新河岸川舟運の隆盛に思いが至りました。鉄道敷設や河川改修、さらには関東大震災等に個人の業者が飲み込まれ、舟運が衰退していく様子に大きな歴史の流れとロマン(ちょっと大げさですが……)を感じました。また、河岸道の説明では現在のそれぞれの街道の様子を思い浮かべながらお話を伺いました。どの道も良く通る道なので、今まで以上に愛着を感じました。