野外学習 第4回 史跡・文化財めぐり「入間川地区」
実施日:平成30年10月4日(木)8時20分集合~12時20分現地解散
天 候:曇時々小雨 22度 風なし 暑さは無く野外学習には適温でした。
地 区:入間川地区 コース距離 約4.5㎞
コース:狭山市駅西口広場集合…徳林寺…綿貫家の墓地…福徳院…市民交流センター(休憩)…八幡神社…清水八幡…諏訪神社…慈眼寺…現地解散
参加者:髙橋先生 受講生23名 スッタフ6名 狭山歴史ガイドの会6名 総勢36名
◇はじめに
本日訪れた入間川地区は、中世における軍事上の重要拠点であり、古道・鎌倉街道が通り、入間川宿が繁栄した地域です。“兵どもの夢のあと”の香りがする史跡・文化財とともに、この地に残る伝統的な祭事にも出会えます。さて、今回はどんな発見があるのでしょう?……さ~出発!
◇見学場所① 徳林寺
・このお寺は福聚山徳林寺といい、宗派は曹洞宗です。本尊は木造宝冠釈迦如来坐像で、文殊菩薩と普賢菩薩を従えた三尊形式のものです。
・当寺が所蔵する絹本着色釈迦涅槃図と釈迦八相図は、昭和61年(1986)に狭山市指定文化財・絵画として指定されました。釈迦涅槃図はお釈迦様の臨終を描いたものです。釈迦八相図は、お釈迦様の生涯における8つの事跡を描いたものです。
・言い伝えでは、新田義貞が元弘3年(1333)の鎌倉攻めの際にこの場所に本陣を置いたそうです。また、鎌倉公方・足利基氏が文和2年(1353)から9年間この地に「入間川御所」を開き、新田勢の攻撃に備え滞陣したそうです。
◇見学場所② 綿貫家の墓地・綿貫家は江戸時代に栄えた豪商で、18世紀前半には相当の財力を蓄え、江戸後期には「西の鴻池・東の綿貫」と並び称されたと伝えられる商家です。入間川では酒造業などを営み、江戸では米穀商を営むなど手広く商売を行っていました。この墓地には綿貫家16代にわたる墓石が並んでいます。
◇見学場所③ 福徳院
・このお寺は綿貫家2代目の孫兵衛が創建したもので、本尊は綿貫家の守り本尊といわれる不動明王坐像です。
・境内には霊場の象徴として総丈が12mもある観音菩薩の石像が建ち、その前の観音堂には、かつて徳林寺の本尊であった木造聖観音菩薩坐像が安置されています。
・当院は現在、徳林寺の管理下にあり観音堂は武蔵野33観音霊場の第17番札所となっています。
◇見学場所④ 八幡神社
・当神社は旧入間川村の総鎮守で、過去に新田の八幡宮と称されたことがあります。創建は数度の火災により古記録を失い不明です。祭神は応神天皇で、天照大神と春日大神を合祀しています。
・本殿は昭和48年(1973)に狭山市指定文化財・建造物として指定されました。唐破風向拝付・千鳥破風付入母屋造りの建物は、享和2年(1802)に完成したものです。正面を除く3面の壁面には市内屈指といわれる彫刻が施されています。
・八幡神社に奉納される獅子舞は、毎年敬老の日直前の土曜日・日曜日の両日に行われ、「八幡神社鹿子舞(ししまい)」と呼ばれています。昭和46年(1971)に狭山市指定文化財・無形民俗文化財として指定されました。
◇見学場所⑤ 清水八幡
・清水八幡は清水冠者義高を祭神とする神社で、昭和52年(1977)に狭山市指定文化財・史跡として指定されました。
・義高は木曽義仲の嫡男として生まれましたが、寿永2年(1183)に父義仲と源頼朝が一時不仲となったとき、和議の条件として当時11歳の義高は人質として鎌倉に送られました。その後、頼朝の長女大姫の婿になりますが、父義仲が頼朝に討たれる事態となり、復讐を怖れた頼朝は義高の殺害を考えます。これを知った大姫は義高に女装をさせて密かに鎌倉を脱出させます。しかし、入間川の八丁の渡しまで来たところで頼朝の追っ手に捕らえられ、討たれてしまいます。残された若武者の遺体を見て哀れんだ地元の人が、埋葬し墓を造ったといわれています。その後、大姫の母政子は悲嘆にくれる娘を哀れに思い、義高の墓に神社を建て義高の霊を祀りました。
◇見学場所⑥ 諏訪神社・当神社の創建は、信濃国諏訪大社の祭神を約400年前に勧請したと言い伝えられ、祭神は武御名方命(たけみなかたのみこと)です。戦国時代の天正10年(1582)に甲斐の武田氏が滅亡後、入間川流域に移住してきた家臣によって創建された可能性があります。
・「お諏訪さまのなすとっかえ」の祭事は、平成9年(1997)に狭山市指定文化財・無形民俗文化財に指定されました。この祭事は毎年8月最終の土曜日・日曜日に行われ、自分の畑のナスを奉納し、神前に供えてある別のナスを持ち帰り食べると一年中病気をしないと言われる珍しいお祭りです。
◇見学場所⑦ 慈眼寺……見学後、現地解散
・このお寺は妙智山慈眼寺といい、宗派は曹洞宗です。本寺は徳林寺と同じ入間市金子にある瑞泉院です。当寺の創建については不明ですが、草庵だった阿弥陀堂が建てられた後に同じ敷地内に創建されたものと思われます。
・阿弥陀堂の本尊であった木造阿弥陀如来立像は、昭和51年(1976)に狭山市指定文化財・彫刻に指定されました。一樹存松(いちじゅそんしょう)により慈眼寺が開山される以前に現在地にあった阿弥陀堂の本尊といわれ、像高73㎝の一木造りです。
◇ 第4回「史跡・文化財めぐり(野外学習)」に参加して ◇
機関誌・広報担当 2班 太田 葉子
「狭山の歴史講座」を受講して、静かな佇まいのこの狭山市に史跡や文化財が数多く、しかも身近にあることに驚かされます。今回は野外学習で入間川地区を巡りました。徳林寺から福徳院、八幡神社、清水八幡、諏訪神社、慈眼寺とおよそ4時間の行程。
その中で、特に印象に残った場所は、綿貫家の墓地と徳林寺です。中央図書館の隣の福徳院の境内に綿貫家の立派な墓地があります。綿貫家は江戸時代に「西の鴻池、東の綿貫」と並び称され、米穀商、両替商として江戸に進出。屋号の山下が神田山下町として残っているほどの豪商だったそうです。
もう一つの徳林寺は、1333年新田義貞が鎌倉攻めの際に本陣を置いた場所と言われ、その20年後には、鎌倉公方足利基氏が軍を率いて入間川御所を開き9年間も滞陣したところです。境内に立つと鎌倉街道を舞台として様々な人が登場し、武士や村人が行きかっていた様が想像され、ここ狭山が、かつて歴史のスポットライトを浴びていた時があったのだと不思議な興奮をおぼえました。