織田有楽斎と淀殿
~ 織田・豊臣・德川の3代を生き抜いた茶人大名
& 家康と五分に闘った女傑 ~
講 師 : 日本ペンクラブ 理事 岳 真也
実施日 : 平成30年7月11日(水)1:30~3:30
場 所 : 狭山元気プラザ 大会議室
出席者 : 受講生 56名(受講生数62名)
描くなら有楽斎
「仕事は70歳までと決めている」とおっしゃる岳先生。それでも書きたい人物が二人いるそうです。一人は狂歌師の大田蜀山人、もう一人が今回の茶人大名・織田有楽斎長益。有楽斎は茶人としての号です。今回は織田家の末弟に生まれ、数奇な運命を辿らざるを得なかった有楽斎とその姪である淀殿の2人を取り上げ、両者の人となりを学んでいきます。
逃げの有楽斎、実は交渉上手
有楽斎は天下人織田信長の末弟(守護代・織田信秀の第11子)として尾張国に生まれました。幼名を源吾といい、「泣き虫」、「へたれ」と言われた気弱な少年時代を送りました。その脆弱さからか、むしろ信長には可愛がられたようです。15歳で元服し長益(ながます)と称しますが、初陣ではまったく手柄を立てられませんでした。
1582年、織田信長が本能寺の変で倒れると、長益は信長の嫡男・信忠の命令で一子の三法師(後の秀信)を守るべく戦場から一緒に逃亡します。すると、「逃げの有楽斎」と綽名(あだな)され、京の民衆たちに「織田の源五は人ではないよ。お腹召せ召せ召させておいて、われは安土へ逃げるは源五……」と揶揄されました。
それ以降、長益は「茶の湯」と「交渉術」で戦国の世を渡り歩きます。まさに「パス回し」が上手なサッカー選手といえるでしょう。山崎の戦いの後、清洲会議に参加しています。賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家から姪の三姉妹(茶々・初・江)を助け出し、秀吉のもとへ送り届けました。信長の死後、1年半程で秀吉は権力を握り、織田家は臣下になります。長益は形の上では甥・信雄(のぶかつ)の家来ですが、秀吉直属の御伽衆(おとぎしゅう)として茶々の後見役を勤めます。この頃剃髪して有楽斎(うらくさい)と号し、千利休とも昵懇(じっこん)の間柄になりました。
1600年、「関ヶ原の戦い」では豊臣を見捨て、徳川軍に属します。そして、家康と秀頼が二条城で会談した時は、北政所(ねね)とともに対面を御膳立てしています。また、「大坂冬の陣」では、和平工作に奔走しました。
晩年、彼は政治から離れ、茶室「如庵(じょあん・国宝)」で茶の湯三昧の生活を送りました。「茶の湯太閤」、「茶の湯公方」と呼ばれ、利休十哲の一人といわれました。有楽斎は「織田家の存続」を第一に考え、時世の移り変りを見極めながら身を処した人生を送りました。
すべては愛児・秀頼のため
淀殿は近江国小谷の戦国大名・浅井(あざい)長政と信長の妹・お市の長女として生まれ、茶々と名付けられました。賤ヶ岳の戦い後、茶々は秀吉の保護を受け側室(淀殿)になります。そして2度の懐妊(鶴松とお拾)で、その地位を上昇させます。秀吉が「かえすがえす秀頼の事、たのみ申候」と63歳の生涯を閉じた時、秀頼はわずか6歳でした。秀頼は千姫(徳川秀忠と淀殿の妹・江の娘)と結婚します。
秀頼が家督を継ぐと、淀殿は正室の北政所(高台院)との対立を深めます。そして、関ヶ原の戦い後、秀頼と家康の地位が逆転し、豊臣家は石高約220万石から約65万石の一大名に成り下がります。
家康は二条城で秀頼と対面し、秀頼の優秀さを知ると「豊臣家の滅亡策」を考えました。方広寺(京都市東山区)の鐘銘「国家安康」「君臣豊楽」に難癖をつけ、「大坂冬の陣」を起こします。その後和睦すると、大阪城の外堀だけでなく内堀も埋め、難攻不落の城を「裸城」にしてしまいました。そして翌年、「大坂夏の陣」で易々と大坂城を攻め落とし、城内の山里丸で秀頼と淀殿を自害させました。3姉妹の中で最も不幸を味わい、淀殿はこの世を去りました。淀殿は息子秀頼を溺愛し、「秀頼を天下人に」と願いました。勝ち気で気位が高く、ヒステリックな性格だったといわれています。しかし、母親のお市似の美人で、妹や息子思いの心優しい性格であったともいわれます。
叔父の織田有楽斎と姪の淀殿は、時間とともに生き方が大きく異なりました。しかし、「織田と浅井の血」は奇しくも彼らによって徳川家に受け継がれ、そして今日にまで伝えられることになるのです。
質問タイム
「千利休が切腹した時、有楽斎はどう思ったでしょうか」「淀殿は、日本史上の三大悪女の一人と言われますが、先生はどう位置付けますか」「豊臣秀吉は、晩年、痴呆症になっていたのではありませんか」等の質問が出されました。先生からは、「有楽斎は利休の一番弟子でしたから、師匠の切腹は断腸の思いだったでしょう。豊臣秀吉は朝鮮だけでなく中国、インドまで征服することを妄想したり、豊臣秀次一族を皆殺したりするなど痴呆症的な部分が垣間見られると思います。淀殿の真実は分かりませんが、江戸時代に書かれた書物が『淀君』の呼称で、悪女や淫婦のイメージを定着させたと言われます。淀殿は子煩悩で、豊臣家の存続を第一に考えていた、悲劇の女性だと思います。もし、彼女にもっと政治力があったら(頭が良かったら)、豊臣家は滅びることはなかったかもしれません」とのお答えがありました。
受講生の感想
「関ヶ原では東軍が勝ったが、逆に西軍が勝ったら日本の歴史はどう変わったかと思った」「多くの側室の中で淀殿だけに子どもができたのはとても不思議。しかし、淀殿が浮気できただろうか。秀頼は体格が良くて丈夫だったという。本当に秀吉の子ではないのではないかと思った」「淀殿と石田三成が一体ではなかったことが、目からウロコ。石田三成はやっぱり武将(リーダー)ではなかったのかなと思う」「関が原で小早川秀秋は何故裏切ったのか。裏切らなかったら、どうなったかと思う」「秀吉の死後、豊臣家を守る骨のある臣下が育っていなかったのではないでしょうか。淀殿を3大悪女と言わせるのも、その辺に要因があるのでは?」等の感想が寄せられました。