明智光秀 ~光秀謀反の本当の理由は何処に?~
講 師 : 日本ペンクラブ 理事 岳 真也
実施日 : 平成30年7月4日(水)1:30~3:30
場 所 : 狭山元気プラザ 大会議室
出席者 : 受講生 60名(受講生数62名)
ワールドカップを観て「戦国」を思う
「今年のワールドカップは結構よく観戦した」とのお話から講義が始まりました。第三試合のポーランド戦、露骨な日本のパス回しに世界の論調は「サムライ精神は消えたか」等々。いやいや、先生によると「武士道」なんてものは安定した時代に作られたもので、「サムライ精神」そのものは孫子の兵法を基に戦国の世に熟成されたのではなかろうか。「拙速は巧遅にまさる」「戦わずして勝つ」「逃げるが勝ち」。すべて孫子の言った最善の戦法だ。下剋上の時代、「逃げる」「騙す」「裏切る」は常道だった。本当のサムライ精神とはこれだと先生は仰る。先生の代表作の一つが『逃げる家康、天下を盗る』……。なるほど!
今蘇る「戦国」の魂
2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀が主人公です。今や戦国史上最大のミステリー「本能寺の変」は、熱心な歴史ファンの興味を駆り立てます。明智光秀は築城や鉄砲の名人で、政策面でも有能な武将でした。また、味方に犠牲を払わせない城攻めの達人でもありました。しかし、豊臣秀吉に罪を被せられ、後世に逆臣の汚名を残すことになります。
光秀は清和源氏の土岐家支流で、美濃国石津郡明智郷(岐阜県恵那市明智)に生まれたといわれます。初め越前の朝倉義景に仕え、後に第15代将軍足利義昭に仕えます。そして、織田信長に召し抱えられて3年目、織田家臣で最初の城持ち大名になり、琵琶湖畔に坂本城を築きました。信長は光秀の実力を認め、大規模な軍事パレード「京都御馬揃え」の大役を任せます。
しかし、信長は徳川家康の嫡男・信康を自刃させ、比叡山を焼き討ちし、伊勢国(三重県)の一向宗徒を皆殺しにし、長年の重臣・佐久間信盛と林秀貞(ひでさだ)を追放するなど、非道な行いをします。その様子を間近に見ていた光秀は、いつしか叛意を抱くようになりました。光秀は茶の湯を好んだ文化人で、大の連歌好きです。里村紹巴(さとむらじょうは)興行の連歌会で、発句「時はいま あめが下しる 五月哉」を詠み、謀反を決意したといわれています。
信長から西国出兵の命を受けた光秀は、亀山城(京都府亀岡市)を出発しますが、一転して老ノ坂峠(おいのさかとうげ)を越え、京へ向かいます。そして、本能寺の信長を急襲して自害させ、嫡男・信忠を二条御所で自刃させます。首尾よく信長を討った光秀ですが、中国大返しにより戻った羽柴秀吉に大敗し、落ち武者狩りであっけない最期を迎えます。わずか13日の「三日天下」でした。
「本能寺の変」の謀反の背景は、怨恨説や野望説、寝返り説など様々な動機や原因が考えられます。
・信長から禿をキンカン頭となじられたり酒を無理強いされたりした。
・八上城(兵庫県篠山市)の戦いで、城主の波多野氏兄弟の身代わりに養母(実母とも)が磔になった。
・重臣の佐久間信盛と林秀貞が追放され、不安を感じるようになった。
・家康の接待役の時、魚が腐敗したことに難癖をつけられた。
・備中(岡山県)出陣を命じられ、丹波等の領地を取り上げられそうになった。
・殺される前に信長を殺してしまおうと思った。
・戦国武将であるなら天下を取ろうとの野心を抱いた。
・前室町幕府将軍足利義昭や朝廷の貴族たちの暗躍により、その指示に従った。
以上のように様々な説がありますが、真実は本人にしか分かりません。また、光秀は生き延びて、南光坊天海として徳川家に仕えたとの説もあります。
質問タイム
「『敵は本能寺にあり』と告げられた時、光秀軍の将兵はどんな思いを抱いたでしょうか」「この頃、柴田勝家はどこで戦っていましたか」「日光市の第2いろは坂を上り切った所にある明智平の地名の由来は何ですか」等の質問が出されました。岳先生からは、「光秀軍の家臣は驚き、反対した者もいた筈です。また、雑兵は後方攪乱や放火、略奪することが主な働きで、信長を討つことは知らず、直属の上司に従っただけなのではないかと思われます。柴田勝家軍は、越中境で上杉景勝と対峙しており、とても来られる状況ではなかったのです。明智平は、日光山を再興した天海大僧正が名付けた地名だそうです」とのお答えがありました。
受講生の感想
「信長のいじめは光秀に対してだけではなかっただろうと思うし、やはり、光秀謀反の本当の理由は分からないなーというのが感想です」「徳川家康の接待に信長から難癖をつけられたという所に興味を持った。死に際に「人間50年」と謡ったというが、そんなことを誰が聞いていたのかと思う」「2020年の大河ドラマが楽しみです」「天下を取る寸前であった信長があっさり殺された事件は、その後の秀吉、家康につながる日本史上の大事件。特に秀吉がわずか10日でとって返し、光秀が彼に破れたのも不思議な出来事。小説家にとっては、題材とするのに良い話だと思う。今日のお話は大変興味を持って聞いた」との感想が寄せられました。