平将門~東国で人気ナンバーワンの反骨の武将~
講 師 : 日本ペンクラブ 理事 岳 真也
実施日 : 平成30年6月13日(水)1:30~3:30
場 所 : 狭山元気プラザ 大会議室
出席者 : 受講生57名(受講生数62人)
東国で人気ナンバーワンの「関東の守り神」
東京都千代田区外神田の神田神社(平将門が祭神の一人)と、同区大手町の将門首塚(将門の首が飛んで来た地)は勝ち運と厄除けのパワースポットになり、多くの人が訪れています。将門は重い負担を強いられた東国の代弁者として讃えられ、将門の霊は、後世、江戸の守り神として敬われました。将門は、関東武士団の先駆者です。明治以降、逆賊とされ分祀されましたが、昭和51年にNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映されると、同59年、将門は、再度神田神社に合祀されました。余談ですが、この神田神社の境内にはかの「銭形平次」の碑もあります。
悪将、転じて反骨の武将
平将門は、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝や北条政子より約300年前の人で、高貴な家柄に生まれました。祖父は桓武天皇の曽孫・高望王(たかもちおう)で、宇多天皇から平氏の姓を授けられ、臣籍降下し関東に下りました。父親の平良将(たいらのよしまさ)は鎮守府将軍(陸奥守を兼任)になり、下総国佐倉を領地にしました。
将門は16歳で京に上り、藤原北家の右大臣・藤原忠平に仕え、検非違使(今の警察官や裁判官)になろうとしましたが役に付けず、父が亡くなり30歳で故郷に帰ります。すると、叔父の平良兼(たいらのよしかね)や平国香(たいらのくにか)によって、父の領地が略奪されていました。
将門は承平5年(935)、33歳で、源護(みなもとのまもる)の3人の息子を討ち取り、平国香を攻め滅ぼします。従兄弟の平貞盛(国香の嫡男)や良兼の軍を包囲した将門は一部の包囲を解き、あえて貞盛を逃亡させます。この唯一のエラーが後の「命取り」となるとは、誰が思ったでしょう。その後、源護によって出された訴状によって将門は朝廷から召還命令を受けますが、朱雀天皇元服の大赦によって罪を許され帰国します。
武蔵国へ新たに赴任した権守(ごんのかみ)の興世王(おきよおう)と土豪の藤原玄明(ふじわらのはるあき)と連携を図り、将門は地域紛争の調停役を果たします。常陸国の国府を攻め、国司の公印と国府の鍵を奪い、国司を追放。続いて、下野、上野等を落とし、関東一円を手中におさめて自ら「新皇」と名乗りました。しかし、京の朝廷からは賊軍と見なされ、下野国の押領使・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と親族の平貞盛の連合軍に攻められ、あっけない最期を迎えます。乱を鎮めた藤原秀郷と平貞盛は朝廷に取り立てられ、出世します。
京都に運ばれた将門の首は晒し首となりました。これが日本で初の晒し首だそうです。また、将門の首は胴体を求め、東国に飛んで行ったといわれています。将門の「からだ」がなまって神田「かんだ」に、「からだの明神」が「神田明神」となったとの説もあります。
平安時代に武士団が形成され、頭領と家子(いえのこ)・郎党の主従関係ができました。将門は身内の争いを利用し、天下を取ろうと思いました。しかし、十分な恩賞を与えられず、部下が離反してしまいました。御恩と奉公の主従関係が成立しなかったのです。将門による関東支配(朝廷からの独立)は、鎌倉幕府や室町幕府、そして、江戸幕府の成立の先駆けとなりました。
関東と関西で起きた「承平・天慶の乱」には、平将門と藤原純友が比叡山上で共同謀議を行ったという伝説が伝わります。『ある日、青年時代の平将門と藤原純友は比叡山に上り、平安京を見下ろした。その時、2人はともに反乱を起こし、京を奪い、将門は桓武天皇の子孫だから天皇になり、純友は藤原鎌足の子孫だから関白になろうと約束した』と。
質問タイム
今回も、沢山の質問が出されました。「平将門を担ぎ上げたのは、誰でしたか」「平将門は、どこで亡くなりましたか」「山形県鶴岡市羽黒町の羽黒神社五重塔は平将門が建立したと言われますが、本当ですか。」等々。「常陸国猿島郡(現在の茨城県坂東市)で亡くなった将門ですが、最初から天下を狙っていた訳ではなかったと思います。取られた土地を取り返すうちに、ついて来る人間が増えていき大きな集団となったのでしょう。その多くは京都の朝廷に不満を持った東国の武士団です」。また、五重塔については「本人がそこに行ったとは思えない。むしろ負けた方が祟りを怖れて将門の名前を借りた、あるいは彼の部下が将門公を騙った等は考えられるのではないか」とのお話でした。
受講生の感想
「首を斬られてさらされたのは、日本の歴史でも初めてだとは知らなかった」「平将門が幼い頃、何年も京都に行っていたことは興味深い」「将門は京都に長くいたのに、どうして戦いが強かったのかと思う」「将門が東国武士を活躍させ、源氏、平氏の対立に向かった歴史が面白いと思う」「東で人気があるのは朝廷、貴族、寺社を中心とした律令体制に反感をもつ庶民感情に原因するのではないかと思うのですが……」等の感想が寄せられました。大変有名な平将門ですが、新たな人物像に想いを新たにした受講生も多いようでした。
本日はおまけも……調べてみました
先日の懇親会で、逆転日本史講座受講生62人の平均年齢はどれくらいなんだろうかとの話題が出ました。そこで調べてみました。結果は、平均年齢72.4才。最高齢は88才、一番若かったのは64才。70代前半が24人で約40%を占め、次に多いのが60代後半の約30%でした。65才~74才までで、実に70%を占めていました!