「北条政子」~頼朝をも負かす胆力・知性・理性の持ち主~
講 師 : 日本ペンクラブ 理事 岳 真也
実施日 : 平成30年6月6日 1:30~3:30
場 所 : 狭山元気プラザ 大会議室
出席者 : 受講生55名(受講生数62名)
日本で初の恋愛結婚!?
政子は婚約者がいましたが、その政略結婚から逃げ出して頼朝の元に走ったと言われています。しかも、頼朝は当時罪人という立場だったため、政子の結婚は父親を中心に大反対されました。その頃は夫が妻の所に通う「通い婚」が多かったのですが、その逆バージョンで政子は頼朝の通い妻になりました。日本で初の大恋愛で結ばれた夫婦だったという話から今回も楽しい講義が始まりました。
政子は本当に悪女、悪妻、悪母だったのか?
政子は大変な焼き餅焼きでした。第2子妊娠中に頼朝の浮気を知った政子は大激怒。部下に命じて浮気相手「亀の前」の屋敷を襲撃し、壊してしまいます。すごいですね。文春砲真っ青です。ただ、後妻打(うわなりうち)と言って、夫が妻を離縁して後妻と結婚する時、先妻は予告して後妻の家を襲いストレスを発散する、後妻の方もそれを迎え討つという風習があったので、当時としてはそんなに珍しいことではなかったのかも知れません。一方、政子には優しい面もあり、鎌倉八幡宮の神楽殿で、追われる身だった源義経の愛妾・静御前が舞を舞い、その舞に頼朝が激怒した時、夫をなだめ静を救っています。
政子は第2代将軍源頼家(政子の長男)を嫌い、伊豆国修善寺に幽閉し、翌年、謀殺しています。頼家の舅・比企能員(よしかず)は将軍頼家を擁し、北条時政の征伐を企てますが、逆に比企氏は滅ぼされてしまいます。第3代将軍実朝(政子の二男)は、兄頼家の二男・公暁に殺されます。裏で北条氏が陰謀を巡らせたとの説もあります。一方、父である時政が娘婿の平賀朝賀の将軍就任を画策すると、政子は父親でさえ出家、蟄居させます。政子の悪名の所以でしょうか。
今から約800年前の承久3年、後鳥羽上皇は幕府から政権を奪うことを夢見て、北条義時追討に挙兵しました。その時、政子は名演説「頼朝公の御恩は山より高く、海よりも深い」で東国武士を結集、朝廷軍に圧勝しました。鎌倉時代は将軍の御恩と御家人の奉公の主従関係が第一義で、初期の「武士道」はキブ&テイクでお互いに見返りを求め、双方が利益を得るウィンウィンの関係でした。
男勝りの性格の政子は、生まれつき政治能力が備わった女性でした。しかし、周囲の男たちからは嫉妬を買い、揶揄、非難されました。頼朝死去後、北条氏の執権政治は初め合議制に基づいて行われていましたが、次第に北条氏独裁の性格を強めました。尼将軍として有名な北条政子は、自分の子どもは殺す、愛人宅は壊す、孫まで殺すなどで「悪女」「悪妻」「悪母」と言われています。しかし、男勝りの優秀な女性で、肉親の情に流されずにいつも冷静に政事を行っています。政子は、頼朝死去後幕府の礎を築いた、偉大な日本初の女性リーダーだったのです。
質問タイム
今回は、「政子は、平家追討に直接関係しましたか」「鎌倉時代の武士道は、いつ生まれましたか」「日本の中央集権国家は、いつ出来ましたか」等の質問がありました。当時は武士というより、武人、武家位の感じではないか、平清盛は「武士」と言われる、また、「御家人」というのもこの時代あたりから使われている等々のお答えでした。「北条泰時が制定した御成敗式目は、北条政子と関係がありますか」との質問には、「回答は次回に回したいと思います」とのお答え。先生の誠実な人柄が表れています。
受講生の感想
「北条政子の性格、生き方に大変興味をもちました」「北条政子にはたいして興味を持っていませんでしたが、大変勉強になりました」「平氏の北条が頼朝勢に加わった本当の理由は何なのだろうかと思いました」等の感想が寄せられました。また、「歴史に女性が登場することで、より複雑で深くなるように思いました。それが長い目で見た時、正しい方向に行くのか、間違った方向に行くのかはともかく、人間模様の想像が広がり、探求心や面白さが増しました。新たな歴史に対しての発見でした」というものもありました。歴史に登場する女性はあまり多くなく、今回の講座でも「北条政子」「淀君」「薬子」の3人ですが、主人公は政子のみです。貴重な今回の講座でした。